2min, 数年に一度、学科試験問題の見直しが行われます。ちょうど今年度が問題の見直しの年となりました。, 今年度の問題にはハラスメントについての心がけを述べるなど、教本に載っていないようなことも散見されます。さらに弓道の知識を深めるという意味でも、審査を機会に勉強してみてはいかがでしょうか。, 改訂後の試験問題は全日本弓道連盟のホームページより閲覧できます。参考元:公益財団法人 全日本弓道連盟 申請書類各種, 学科試験時間は60分間です。合格点は100点満点中60点といわれています。ただし、採点基準は公開されていません。, 眼目(読み)ガンモク1 目。まなこ。「委員等が最も其の―を注で、熟視するの人物は」〈竜渓・経国美談〉2 ある物事の最も重要な点。「会議の眼目」出典 小学館 デジタル大辞泉/コトバンク, ここで使われている「眼目」とは、2 最も重要な点 の意味でしょう。したがって、「弓道修練の眼目」とは「弓道を修練するうえで最も重要な点」と読みかえることができます。, それでは、「弓道修練の眼目」について記述された箇所を確認しましょう。弓道教本には以下のように説明されています。, (理念)前会長の故宇野要三郎範士は日ごろ次のことを強調された。〇射法、射技の研修〇礼に即した体配の修練〇射品、射格の向上〇人間完成の必要以上のことは現代弓道の修練の眼目であろう。体配と射法射技が渾然一体となり、品格のある射が生まれなければならない。日本の弓道は的中至上主義をとってはいない。弓道には調和の美がなければならない。更に弓道の要諦は至誠と礼節である。人に勝つことよりも「誠」を尽くすことがより大切である。弓道の修練にあたってはこれらのことを心に銘記し、正しい信念と勇気を持つことが肝要である。この教本の目的の一つは弓道の修練が心身ともに日常生活につながることを念願している。弓道は体育や健康のためばかりでなく、人生をより高く豊かにするものでなければならない。昔から射即生活とか、射即人生といわれてきたことを忘れてはならない。弓道が教えてくれる躾や慎み、和敬、克己、反省等の徳目を体得することが大切である。ことに、学校における弓道の意義は、健康の増進とともにこうした徳目を身につけることにある。, ・射法、射技を磨くこと。・体配を練習すること。・射品(品のある射)、射格(格式の高い射)を目指すこと。, 体配と射法射技が渾然一体となり、品格のある射が美しい。また、弓道の要諦は至誠と礼節である。人に勝つことよりも「誠」を尽くし、正しい信念と勇気を持つことが肝要である。弓道は体育や健康のためばかりでなく、人生をより高く豊かにするものである。これらを念頭におき、日々の弓道修練に励み続けていきたい。, 本記事では「弓道修練の眼目」について解説しました。その他の学科試験問題や実技審査については以下の記事を参考にしてください。, 【田舎で単体決算を締める28歳の経理マン】ブログとビジネス系YouTubeが大好きです|朝活+定時退社+会社の飲み会お断りの三本柱|高校受験失敗̚→国立大学現役合格→大学弓道で関東Champ→就職留年→ホワイト企業で簿記1級にコミット中(現在2落)|SEOライター・経理代行・アウトソーシングの依頼はTwitterのDMまで, […] 過去の記事「【2019年度版】弓道の学科試験問題「弓道修練の眼目」の解答例【五段審査…」においても詳しく解説しています。 […]. 上村 春樹(うえむら はるき、1951年2月14日 - )は、日本の柔道家(講道館9段)。, 1976年モントリオールオリンピックの柔道無差別級金メダリスト。引退後は全日本柔道連盟会長(2009年4月 - 2013年8月)、国際柔道連盟指名理事(2007年9月 - 2013年8月、2015年8月 - )、第5代講道館館長(2009年4月 - )等を歴任している。, 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身[1]。生来の肥満体を案じた両親に勧められ小学校5年生の時に柔道で始めた[1]。6年生で出場した地域の小学生大会で優勝を果たしたが、上村は「周りの子が体重40kg前後なのに対し自分だけ70kgだったから優勝して当たり前」「翌日に学校の朝礼で表彰された時は嬉しいを通り越して恥ずかしかった」と述懐している[1]。柔道を始めてからも運動神経の鈍さは変わらず、町立益南中学校時代は100mを20秒で走り懸垂や逆上がりは一度も出来ず[2]、柔道は背負投を得意にしていたものの県大会にすら出場できなかった。, 県立八代東高に入学すると、後に上村自身が“世界を目指せたきっかけの1つ”と語る、土谷新次師範(のち講道館8段)と出会う。グラウンド10周と打ち込み500回を日課にして基礎体力を作り上げ、入学時に100kgあった体重を76kgまで絞った事に加え、「内股なら日本の誰よりもうまく教える事ができる」と語る土谷を信じてその技を吸収した[1]。なお、土谷は目が不自由であったため“音で知る技の良し悪し”を上村らに伝授し[2]、実際に土谷の足技は抜群であったと上村は語っている[1]。結局、3年間インターハイへの出場は叶わなかったが、個人戦県大会3位の実績が買われて1968年福井県親切国体の熊本県高校代表に選抜されると、5試合を全て違う技で一本勝ちしてチームの団体優勝に貢献した[1]。, 試合後、大会視察に来ていた明治大学柔道部監督の神永昭夫から、同大学を受けるよう勧誘された[1]。, 自信満々で入学した明治大学だったが、その自信は練習初日に木端微塵に打ち砕かれた[1]。容赦なく畳に叩きつけられた衝撃を上村は「初めて自分より強い人たちとばかり練習した」「とんでもない所へ入ったと思った」と述べている[1]。, さらに入学2週間後、初試合となった東京学生体重別選手権では同期の川口孝夫らが優勝する中、上村は初戦で青山学院大学の選手に絞め落とされ敗れてしまう[1]。大きな挫折と敗北感から、会場の隅で柔道を諦め熊本へ帰る決断をしていた上村は、神永から「人並みにやったなら人並みにしかならない、素質の無いものは2倍,3倍やらないとチャンピオンになれない」と活を入れられ、帰郷を思い留まる[2]。 同年10月の世界選手権に無差別で出場した上村は、準決勝戦でショータ・チョチョシビリ(当時ソ連代表)と当たった。上村は体ごと放り投げられ、頭を打って気絶したが、上村の体重が軽すぎた(当時約100kg)ため、勢い余ったチョチョシビリも頭を打ち気絶してしまった[2]。上村の体が運よくがチョチョシビリの体の上に落ちたため、そのまま押さえ込みとなり、一本勝ちした[5]。続く決勝戦では前回大会で敗れた二宮和弘を判定で破り、世界選手権での初優勝を遂げた。, 1975年に2度目の全日本優勝を飾った上村であったが、準決勝戦で当たった山下泰裕の才能に脅威を感じ、その後1年間、山下対策として捨て身の小内刈(いわゆる小内捲込)を練習した[2]。翌1976年の全日本選手権では遠藤に敗れ優勝こそならなかったものの、準決勝戦で東海大学1年生となった山下泰裕に小内捲込で優勢勝ちし、モントリオールオリンピックの代表権を獲得した。, オリンピックでは、初戦で自分より身長が約40cm高い選手を大内刈で破ると、準決勝戦で前述のチョチョシビリの技を巧みに封じて技を掛け続け優勢勝ちし、決勝戦もイギリス代表のキース・レムフリーに大内刈からの抑え込みで一本勝ちして、金メダルを獲得。柔道がオリンピックで正式種目になって以来、日本に無差別級金メダルがもたらされるのは初めての事であった[注釈 4]。, なお、明治大学入学からオリンピック無差別級優勝までの経緯は、学生時代の師匠であり1964年東京オリンピック柔道無差別級銀メダリストの神永昭夫と上村との“師弟の絆”と題され、NHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX~挑戦者たち~』でも紹介されている。, 柔道界にあっては山下泰裕の壁になっていた四強時代(上村、遠藤、高木、二宮)の1人として、身長174cm・体重103kgと重量級では小柄の方であったが、センス抜群で相手の得意技を包み込んでしまうような不思議な強さを有していた。 同年10月の世界選手権無差別に出場して決勝まで進むも、二宮和弘との日本人対決で敗れ準優勝に終わる。, 翌1974年は4月の全日本選手権で、永くライバルと呼ばれる遠藤純男(警視庁)に敗れてベスト8止まり。この際に“やはり延岡では無理”“上村は終わった”と表現されたのが悔しくて、それまでの前か後ろに投げる技だけでなく、横へ崩す技・横へ投げる技を鍛え上げる[2]。 2020/8/26 会員へのお知らせ. 2019年に起こった日本国内のスポーツのワースト不祥事を筆者の視点でまとめてみました。主な項目は、テコンドー協会の内紛、プロ野球とjリーグのパワハラ、ラグビー選手の薬物使用、大学スポーツの不祥事 … 全日本弓道連盟会報(第4号)の発行について. 8月21日には全柔連会長を正式に辞職した。その後の記者会見では一連の不祥事に関して謝罪しつつも、自身の業績を列挙して、「まだまだ未熟だが、自分なりにいい仕事ができたと思う。違った角度から柔道を支えたい」と話した。なお、新会長には当時新日鉄住金会長兼最高経営責任者の宗岡正二が就任する事になった[29][30]。, 2013年8月の国際柔道連盟(IJF)総会において国際柔道連盟理事からも正式に退任し、IJFに日本人理事は不在となった[6]。, 2014年10月には全柔連から現会長の宗岡正二と理事会の諮問に応じる顧問の就任を要請される事になった。なお、任期は8年で無報酬の名誉職となる。一部の理事からは就任への反対意見も出されたが、会長の宗岡の見解によれば、明確な処分が行われていなければ就任を妨げるものではないという[31]。, 2014年12月3日に東京地検特捜部は、上村が元強化委員長の吉村和郎とともに詐欺容疑で告発されていた一件に関して、嫌疑不十分のため不起訴にすると発表した。両者は助成金の不正受給やその一部を上納させていた問題により告発されていたが、助成金を詐取する意図があったとまでは言えないと特捜部に判断された[32]。, 2015年3月4日に全柔連は常務理事会を開き、一連の不祥事により辞任した前会長の上村春樹、前副会長の藤田弘明、佐藤宣践、前専務理事の小野沢弘史の旧執行部を含む8名が、会長や理事会からの諮問に応じる名誉職の顧問に就任した事を発表した。すでに前年10月には要請が出されており、上村のみ態度を保留していたものの年明けの1月になって受託した。任期は2022年3月までとなる。これで顧問は28名となった[33]。, 8月21日にIJFは世界選手権が開催されるカザフスタンのアスタナで総会を開き、全柔連副会長の山下泰裕とともに上村をIJF会長であるマリウス・ビゼールが指名する議決権を伴わない理事に登用する事を決定した。任期は2年となる。両者を指名理事に加えたビゼールは、「柔道界のレジェンドだ。柔道の発展のため、日本の存在は重要。20年東京五輪で柔道の団体戦が新種目として採用されるチャンスがある。(国際オリンピック委員会などへの)ロビー活動において全柔連と講道館の力は不可欠だ」とコメントした。両者は理事会において教育や普及の分野を担当する事になるという。上村は指名理事を辞任した2013年以来の理事復帰となった。2013年に日本からの理事が不在となった事で、日本の発言権や情報収集力など国際柔道界での影響力の低下を招いていた所だった。理事復帰に関して上村は、「柔道の本来あるべき姿を発信し、世界に正しい柔道を普及させていきたい」と語った[34][35][36][37]。, 上村によれば、先輩と乱取りの際には、後輩が先輩を喜ばせるためにわざと投げられる(厳密には、投げられた演技をする)事が多くあったという。そのような中で、上村は先輩相手にも容赦なく喰らいついたため、先輩からイジメられ、泣かされ、何度も絞め落されたという, http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sports/487366.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=上村春樹&oldid=80427557.