地上での訓練からある程度上達した時点で、ラクダ騎乗の射撃法、停止したり、歩ませる、走らせる、などの動きを伴う射撃を順次受けてゆく。この様子の一部はアルジェリアのサハラ砂漠西北部アドラール基地の東方アイン・サラーフの訓練基地で行われたメハリスト軍団の練習風景が、早くも1899年、フランスのグラフ誌...  L'Illustration, 9月23日付け(no 2952)に載せられて世界に知らしむるところとなった。... ... 砂漠地帯の動向とパトロールの把握には、このラクダ軍団、メハリストMéharisteが効果的成果を上げていることから、アルジェリアだけでなく、こうしたメハリストMéhariste軍団をサハラ砂漠の周辺の植民地、中東のアラビア砂漠を抱える仏植民地ヨルダン、シリアなどにも配備された。1920年代にはシリアでメハリストMéhariste三軍団が導入され、1930年代には、フランスの中東植民地には砂漠地帯を抱えるところではメハリストMéhariste軍団が作り上げられ、ヨルダン、シリア、イラクで現地のラクダ軍団にも負けないぐらいの熟練度に至っていた。, 上図はアルジェリア全土を図示したものだが、全部入りきらず、左側の「モロッコ」に沿って大きな三角地帯が伸びている。モロッコとの点線の国境線を北方からゆるく斜めに下ろし,また南方のマリと国境線をそのままの伸ばして、両者が交差すル地点が最西端であり、「西サハラ」と国境を接している。地図からはみ出た西方の三角地帯は、北方がSaqura地方、南方がChech地方と呼ばれ、ほとんどがサハラ砂に飲まれている。, 大都市アルジェやオランは地中海側に面してフランスを始め、西欧人が避寒やバカンスに訪れる所でもある。カアミュやダリダなどはアルジェリア生まれであり、また都市には多くのインテリや思想家が排出せれ、後に独立闘争の核となってゆく。, すぐ背後にアトラス山脈がそびえ、内陸部とを分かっている。アトラスを超えると、広大な砂漠が来るものを飲み込むように待ち構えている。アリジェリアからサハラ砂漠を超えるルートは最終的に二本となり、東のニジェール街道、西にマリ街道が南北に伸びている。アトラス山脈の中やサハラ砂漠の中には、アラブと交雑が進むが、異民族トワレグも含むベルベル族が定住や遊牧生活を行っている。フランス軍は砂漠近く、あるいはまったく砂漠の真っただ中に、メハルスト駐屯地及び訓練所を設けた。6か所知られているが、上の地図上にその地名の上を囲んでおいた。Tabelbara基地は地図上をはみ出し、より西方にあるので、筆者が補っておいた。, 植民地化が進むなか、砂漠を擁する国を支配する西欧列強は、地域や国境の警備やパトロールに、ラクダを用いて、状況把握や、戦闘隊形、作戦の臨機応変性などで、ラクダ部隊の利点を飲み込んでいった。, 飛行機に時代になって第二次大戦においても、メハリストMéhariste軍団の存在は欠かせなかった。空から状況把握はできるのは、おおざっぱなものであった。地上の局所においてのゲリラ戦や紛争など、空軍の飛行機は有効に働いたが、大まかであって十分ではなかった。接近して戦闘するには飛行機では不可能であったし、具に戦場、国境をパトロールするにもまた飛行機やヘリコプターでは不可能であった。, メハリストMéhariste軍団などが陸上を監視して地に足をつけて見回らねば、実情は把握できなかった。単なるパトロールでも小人数で辺境へ出かける場合、現地に地理をよく知る敵に、待ち伏せやゲリラ戦で全滅の憂き目も会うことがしばしばであった。そこでメハリストMéhariste軍団は小人数にはせずに、最小でも5,60人の小隊を組まねばならなかった。, 第二次大戦中は、東に隣国リビアがイタリヤ領であったため、メハリストたちの国境沿いの警戒が激しくなり、時には戦闘を交えた。, 仏軍は植民地チュニジアにおいて現地の独立反乱分子に対してサハラに通じる地帯で、また枢軸国イタリアが植民地としているリビアでは、南方のチャドと国境を接するフェッザーン地方で、メハリストMéhariste軍団を組織して対抗させている。, アルジェリアではフランスからの独立闘争が1954年からが始まった。アルジェリア解放戦線(ALN)が結成され、活動を始めた。ところが隣接するモロッコやチュニジアも仏領であったが、1956年には独立を許した。が、アルジェリアは国家の一部だとして、フランスは独立を許さなかった。その年にも独立を許さなかった。一層弾圧や容疑者の拷問が激しくなった。アルジェリア国民は怒りを上げ、アルジェリア解放戦線(ALN)は戦闘的になり、ゲリラも頻発した。ALNの活動は、徐々に都市部から地方へ、そして砂漠地帯へと広がりを見せた。, メハリストを取り巻く状況も変わった。1957年10月、サハラ砂漠の奥、西側の拠点となっていたアドラールAdraar基地に属する現地人メハリスト軍団のうち60人がパトロール中に反乱を起こして、8人のフランス人将校を殺害した。この際ALNに参加すれば、助命される旨伝えられたが、それを拒否して殺されてしまった。しかし殺害した反乱メハリスト達も、通報を受けて現場へ急行したフランス戦闘機で銃撃を受けて死傷してしまった。ALNは既に独立している東のチュニジアから多くの援助を受けていた。, そのチュニジアとの国境線が長いことから、ALNにとっては有利な生命線となっていた。武器や兵站の補給を受けていた。が、仏軍メハリストの巡視やヘリコプターそれに戦闘機の不意の襲来によっての打撃も大きかった。さらにモリスラインとして悪名高い鉄条網をチュニジアとの国境線に付設してしまったのである。そのため同志から戦闘員の加入や補給物資を送り込むにも、夜間活動を行ったり、時には仏軍メハリストに変装して越境せざるを得なくなった。, しかしこうした苦境に立たされていても、ALNの奮闘は外部からの大きな支援があった。, 世界の賛同者を集めた。フランス自体の中にもとサルトルなどの著名人などがアルジェリア開放の声を上げ、さらには世界中の第三勢力を味方につけたのである。, ついに1962年フランス政府も撤退を余儀なくされた。ALNはアルジェリア独立を宣言して、世界中の世論に支持され、フランスも敗北を認めざるを得なくなった。アルジェリアの1954年から62年に及ぶ独立闘争は、まさに血と汗によって勝ち取られた貴重な独立運動の事例となった。, 仏軍メハリストは解体されたものの、新興アルジェリアに残されたメハリスト軍団は、その後も規模は縮小されたが、存続して国境や砂漠をマフリーラクダによって巡回している。, 戦争が終結しても、メハリストMéhariste軍団は限られた範囲で残された。こうした地域では、ラクダが軍力となっていたために、治安や警察も兼ねて砂漠パトロールを行う任務を託された。人里離れた砂漠に分け入る、各地域の乾燥度、牧草の生え具合、家畜や野生動物の繁殖状態、水場や井戸の状態、オアシスなどの農作物の生育状況、遊牧民のラクダやガナム(羊、山羊)などの放牧状態などを調査する任務を負った。またパレードや祝賀行事などその独特な軍服とガンドーラ(マント)をまとう姿は衆目の集めるところとなった。, しかしアルジェリア独立と同時に、厄介な問題が顕在化した。内陸部に居住する異民族トゥワレグ族が自治や独立を求めて動き出したのである。, アルジェリアはトゥワレグ族ともども一体化して反仏運動を行い独立を果たしたのである。内陸部のトゥワレグ族は、都市部では多数で指導的アラブ人に従ってきた。が、そのヘゲモニーには異を唱え、トゥワレグ族の居住地域の自治、さらには自民族の独立を目指す運動を起こす気配を見せていた。, 新生アルジェリア国には独立時1962年にはメハリスト軍団12師団が存在したが、その構成員はトゥワレグ族が多くを占めていた。そしてトゥワレグ独立を志望する構成員は去ってゆき、独立闘争の有力な構成員となった。ラクダ操作よりも近代兵器類に通じた戦闘員の急務はかなったわけであるから。, 南に隣接する新興国マリでもまた国境を跨いだトゥワレグ族の独立運動の対応に追われた。アルジェリア政府の要請もあって、1996年には新たにメハリスト軍団6師団を立ち上げ、北方のサハラ砂漠国境線をパトロールし、トゥワレグ族の動向の見張らせる任務を負わせた。, 2012年にはトゥワレグ族の独立運動でも激しいゲリラ活動も伴った。アルジェリア政府もメハリスト軍団の再編を迫られた。政府直属のメハリストはわずかに368名にとどまっていた。, アルジェリア政府も、同和政策を進めており、多くの要求を容認してはいるものの、トゥワレグ族の問題は現代も尾を引いている。, マアルーフ・アル・カルヒー(Ma”ruuf al-Kalxii)の伝える伝承である:エジプト人ズ・ンヌーンはある時、着物を洗うためナイル河に出て行った。すると途中で、今まで見たこともない巨大な蠍がこちらに向かってやって来るではないか!彼の恐怖は一通りでは無かった。そこでこの蠍からの害悪を逃れるべくタアウィーズ(除厄の呪文、イスティアーザisti"aadhah、ムアッウィザターニとも。危害から守るとされる『コーラン』最終二章) を唱えた。彼のこの唱え事は十分威力があった。蠍の方はナイル河の方に道を逸れ、川面に近づくと、どうだろう!そこへ水中から姿を顕わしたのは一匹の大きな蛙であった。この蛙は背上に蠍を乗せたのだ、そして河を渡り対岸まで渡してやったのである。ズ・ンヌーンが言うには、「私は私で裾を, げて、水中に足を踏み入れた。見失うまいとして視線を逸らすことなく後を追った。蠍は対岸に着くと蛙の背から降り土手に上がって行った。私は蠍の後を追うのに一生懸命であった。蠍は枝を多く伸ばして陰を広げている大きな樹の所まで達した。その木陰には色白の、まだ髭も生えていない少年が眠っていた、どうやら酔っている風であった。私は思わず声を上げた、「ラー・クッワ・イッラー・ビッラーヒ(権能あるはアッラーのみ)!」と。委細構わず、蠍は河の方角からこの若者を刺すべく近づいて行った。とその時、一匹のティンニーン(竜、この場合蛇)が姿を顕わし、この少年を噛み殺すべく近づいて来たのだ。蠍と蛇は挌闘になった。遂に蠍はその毒針を蛇の脳天に刺し、相手を倒した。そして蠍は何事も無かったかのように踵を返すと、、ナイル河の方に戻って行き、来た時と同じように待ち構えている蛙の背に乗って水面を渡り、対岸に渡って姿を消した。私はこの驚異に讃嘆せざるを得なかった:, を聞かされた若者は、後悔して贅沢な衣装を脱ぎ捨て、遊行者のなりに身を包んで旅立って行った。その後の消息では、そのなりのまま死体で発見されたとのことである。(DⅡ244,E348~49), アラブ世界でも、少数のカエルがもの静かで美しく鳴いているのを聞くと、心安らぎ、夜間ならばさらに瞑想的。神秘的、ときに啓示的に聞こえる。アラブ世界には、カエルの鳴き声の聞き做しがあり、こうしたカエルの鳴き声は、神の賛美をしているのであり、神を讃え念唱している声である、とする。俗信と相俟って、こうしたカエルの類は天使たちのハレルヤと同じように、神を念唱し(ジクルdhikr)、あるいは神の賛美(タスビーフtasbii, 座長の唱える誦句=ジクルに一座の信徒たちも合唱する。今、頭と体を左右にゆっくりと振っている。, 本稿で引用している『動物誌』の作者ダミーリーは、同時にハディース学者でもあったのだが、「カエルの鳴き声は神の賛美(tasbii, ある集いでカエルの鳴き声を聞いて、ある者が「まるでドアが軋む音だな!」と嘆くと、アブー・サーリフが諫めて言うに「そうではない。あの鳴き声は神の賛美(tasbii, カエル肉がハラーム(不可食)かどうかのところで述べるが、「カエルはタスビーフ(tasbiih神を讃美)をするから殺してはならない。そのタスビーフの章句とは「聖なる王を賛美し奉る」(Sub, わが国では空腹になると、「お腹の虫が鳴く」と言い方をする。アラブの方では「お腹のカエルが鳴く」naqqa, 骨格:カエルは創造された時点では背骨や肋骨が無く、軟弱な動物とみられていた。ナメクジのような構造で、身体には背骨や硬い骨の支えが無い、と言われていた。, 四肢(taraf pl.atraaf,ataariif )は前脚と後脚とは全く異なり、, 後脚(tarafaan khalfiyaan)はおなじ二本でも、はるかに長い。ウサギ同様、長い後脚は跳躍(qafz,wathab)にも速度を出すにも有利である。この後肢の特化した形態は、ジャンプすることで、敵から逃げたり、エサを捕まえたりする。また, アラビア語圏ではオタマジャクシの名称は4種も持っている。代表語はシュルグーフshurghuuf(pl.sharaaghiif)といっており、「カエルの幼生、カエルの子」の意味である。興味深いのは、この御玉杓子にも, この二匹のカエルは、名称のように「第一と第二カエル」あるいは「前と後カエル」であって、語形態は男性形であるが、普段は雌雄部ついては明別されない。しかし神の命により、天から大量のカエルを降らす役割をも担う。雨雲の中、大量の風塵と降雨を受けて産卵する。瞬時に雲の中で成長段階を終え、成長を終えたカエルたちが大量に雲から地, カエルが至る所いっぱいになったとして、それが何の害悪になっているのであろうか。カエルは泥の中から這いずり出て、泥だらけの身体で、食器、食べ物や居住空間などを汚す体と説明されている。また大きな鳴き声をうるさく出し、睡眠や生活を困らせた、とされる。(教文館『最初大辞典』289頁。, アラブ・イスラム世界では、この両者は西方に「天の川」が流れ、東方にはあの巨大星座「エルダヌス」(「川」、アラビア語ではal-Nahr=第2の天の川)大星座が流れており、その間にある、, 上の星座図で確認した如く、アラブ・イスラム世界では、天界には「二匹のカエル・両ガエル」がいるという。アラビア語ではカエルのことを, イブン・クタイバが述べるに、第25宿サアド・アフビッヤSa”d al-Akhbiyya(テントの幸運)の下に, フォーマルハウトはあまりによく知られている。「南のうお座」を構成する星々のなかでも唯一の綺羅星であり、主星, クジラ座の星座図上下4点。下図2点はアラビア語原典から。いずれもクジラというより上半身怪獣、下半身怪魚のキメラの姿。頭部のα星メンカルMenkarはアラビア語ではal-Minkhar(頭の額)。下の両図には「切り離された掌」al-Kaff al-Jadhmaaと書き込まれている。胴体にある星々は「雌ダチョウたち」al-Na”aamaatである。そして尻尾のβ星ザナブ・カイトスは, エリトリアは、元々はエチオピアの一部として海岸部を占めていた地域であった。海岸部を切り離してイタリアが植民化した地域であった。それゆえエリトリアとして独立するとき、エチオピアとも戦わねばならなかった。幾多の戦争を経て, イタリヤ軍だけではイギリス軍には対抗できず、自領のリビアの東半分キレナイカまで押し込まれていた。この状況にドイツは本格的に参入した。そしてあの名高い「砂漠のキツネ」ことロンメル将軍を差し向けた。たちまち戦局は独伊の枢軸側に傾き、数々の電撃戦を駆使して、リビアのキレナイカを奪回すると、そのまま東方に進撃した。エジプトのアレクサンドリアから100キロm地点のエルアラメインで最後の死闘が展開された。新たに将軍となった英国の知将モントゴメリーはできるだけ近づけて総攻撃を行う策を取った。電撃戦の特異なロンメルも、補給物資と兵站が追い付かずに、ロンメル将軍の独伊軍は, ニジェールには、フランス領西アフリカでも、中世イスラム世界では文化の華が咲いていた。9世紀頃、ニジェール川流域に現在のマリ東部のガオを首都とするソンガイ帝国が興り、ニジェール川流域地方を支配していた。ソンガイは早くから北アフリカのマグリブ諸国との交易があり、イスラム化が進んでいた。その後沈滞期が続き、19世紀末には、イギリスが南と東から、フランスが北と西から進出し、争奪戦が行われた。1898年両国の協定によってフランスが20世紀までに全土を領有してフランス領西アフリカの一部として合併した。一方南の領土、ギニア湾に臨む地方は英国植民地となり、ナイジェリアと呼ばれるが、, そこで仏植民地アルジェリアの行政府は軍事部門にスパヒーの騎馬部隊ではなく、ラクダ騎兵隊を設けることにした。ただでさえ敵意を抱く植民地住民の砂漠、辺境、国境地帯の治安を努めようとする仏軍も、その苦い経験から現地の反乱軍や遊牧民の襲撃にラクダが有効に用いていることにヒントを得た。そしてラクダでの部隊の創設、軍用ラクダとしてその調教と乗りこなし方を学んだ。こうして西欧で初めてのラクダ騎兵隊、ラクダ軍団、メハリスト, の着用であった。かってのイスラム征服軍がラクダを駆って戦闘する、そのイメージを彷彿とさせるイメージである。白色がほとんどであったが、トゥワレグ族出身のものは青色を好んだので、青色の, 熱砂と太陽の直射を防ぐためのヴェールの着用も許された。ヴェールはトゥワレグ族の男子の正装でもあった。上着は白またはカーキ色の筒袖タイプと、現地風のたっぷりとした寛る衣タイプとあり、フランス人も後者を好むものが多くあった。また下半身はゆったりとして幅のある黒色のズボンsirwaalが着用された。. Pixiv FANBOXは、プランをいくつでもつくることができます。, なので、noteにおける「定期購読マガジン」的に使用してもいいんじゃないかなと思います。, noteの定期購読マガジンは、noteプレミアム(月額500円)に入らないと開設できませんし、なんか仕組みが複雑なんですが、Pixiv FANBOXは、とにかくシンプルです。 にわ 実だより 河内長野市会議員にわ実のブログです。「議員」って、何して何考えてるの?一度見てください。こんなことしています。 ... 月別感染者数は、3月 1人 、4月 4人 、5月 0人 、6月 1人 、7月 21人 、8 … 掲載ページはこちらからダウンロードできます Author: 堀内 実智代 ��:なんか盗人の逃亡みたいだねぇ。 تحميل كتاب ألف ليلة وليلة - نسخة أصلية نادرة pdf الكاتب عبد الله بن المقفع. )で、彼はパリで銅板画作者として活躍。聖書の物語に基づいても多くの作品を刻んだ。この絵を見ても分かる如く、エジプトの風土・景観は一切無視されている。聖書を素材に多くの西洋画が生まれているが、モーゼの「十戒」をテーマにして物はよく知られているが、「エジプトの十災」をテーマにしたものは少ない。第2の災「カエルの災」をテーマにしたものは、近代までは恐らくこれだけではあるまいか。, 右図は現代の「聖書の部屋」ブログから採ったもの。ファラオの宮殿にまで大量のカエルが侵入してきて、宮廷人たちが困り果てている状態。地面を埋め尽くしているため、地に足がつかず、一段高いところへ避難しているが、そこにも続々とカエルは這い上がって、飛び上がってくる。, 既に述べたように、エジプトに下った第二の災いでは、イスラエルの神ヤハウェが、カエルでエジプトの全土を覆いつくしました。これにより、エジプト人にとって、神聖なカエルを呪いと苦しみの対象に変えてしまった。彼らの偶像崇拝の愚かさを示されたといわれている。しかし古代ファラオ時代のエジプト資料には、ユダヤ人やモーゼのこと、出エジプトに類することは一切記されていない。従って真偽の程は分からない。モーゼの頃はまだ奇跡が起こせそうな太古の時代であったから。したがってそれ以降エジプト人のカエルの観念が「生命力」と「再生」の好意的な観念から「憎悪、嫌悪」の対象になった、というエジプト人の観念の変化には、真偽が不明のため受け入れられない部分がある。聖書中心主義で、隷属の民ユダヤ人だけの配慮し課していない。ただしイスラム時代になって、モーゼも偉大な預言者の一人であり、隷属状態のユダヤ族を率いて出エジプトを果たしたことは認められている。, 旧約の預言者モーゼ(アラビア名ムーサーMuusaa)も、イスラームでは先行する預言者の一人であり、その事績も民間伝承としてイスラム以前から知られていた。オマーンのアラビア海に面する副首都サラーラの郊外にはムーサーの父イムラーン(“Imraan)の聖廟がある。サラーラは発展して、この聖廟も町中に吸収されてしまっている。またその郊外の高台にはヨブ(アラビア語ではアッユーブ“Ayyuub)の聖廟もある。モーゼを追う舞台としてはあまりに遠距離である。アラブの一種族、ないしユダヤのジプシー性を窺わせる事績である。, イスラームの聖典『コーラン』の中にも、モーゼに関する事績は、2、5、6、7、8、10、11、14、17、19、20、23、25、26、27、28、37、40、43、51、53,79、87章と多く記述されるが、その多くは預言者の一人として挙げられているに過ぎない。, こうした中で聖典『コーラン』の中で唯一「カエル」に言及されているのは一か所だけであり、例のモーゼ「出エジプト記」のなかのファラオ及びエジプト人への厄害奇跡の中にである。, 大量のカエルの出現の奇跡に関して、聖典『クルアーン』の第7章の100~157節は「モーゼの出エジプト記」を扱っており、その133節:, 「そこで我ら(=神)は彼ら(ファラオやエジプト人たち)の上に天罰を送れり、疫病、バッタの大群、おびただしい虱(しらみ)、そしてカエル、(水に代わる)血をば、神からの明らかな奇跡として。しかし彼らはいまだおごり高ぶり、罪深い人々であった」とある。, 『クルアーン』の中では、カエルの害がどう生じて、同被害を与えたかは何ら述べられていない。カエルをナイル川から這い上がらせ、続々とエジプト住民やファラオの王宮を満たしていって、災禍となった、ということには触れてはいない。, むしろ古くからある星辰信仰があり、「天界から降るカエル」の奇跡を実現した、と見た方がよさそうである。, というのも、アラブ世界にはカエルの一種に「天から降るカエル」がある、と信じられている。それが前回述べた「二匹のカエル、両カエル」ディフダアーンal-Difda”aanの関与が認められるからである。, 繰り返し述べるが、天界には「二匹のカエル、両カエル」ディフダアーンがいること、「第一カエル」ディフダウ・アッワルは「南の魚座」のα星フォーマルハウトの別名であること。「第二カエル」ディフダウ・サーニーはクジラ座のβ星デネブ・カイトス(「クジラの尾」)の別名であること。この天界の「二匹のカエル、両カエル」ディフダアーンal-Difda”aanはまた「仲睦まじい者同士」al-Muwaaranahとか、「親近感あるもの・近しき者同士」al-Muwaarabahとして、「仲良し星」、「相思相思星」として親しまれていることも述べた。, この二匹のカエルは、雌雄は明別されない。しかし神の命により、天から大量のカエルを降らす役割をも担う。その折は雌雄の役割を果たし、雨雲の中で産卵をして、オタマジャクシの成長段階を経ずに、一気に成長したカエルとなして大量に天空から雨のごとくに降らすのである。, アラブ世界では、「二つのカエル」は神命を受けて、「天から降るカエル」を創造する時、地界には風雨を巻き起こして、大量の塵埃を竜巻のように吹き上がらせ降雨を発生させる。「二匹のカエル」は急遽、雌雄の生殖器官を備え、多量の雨滴と土・塵埃(turbah)が交じり合う雲(sahaab)の中で、カエルの大量の産卵を生み、そして風雨を伴って、天からカエルを降らせ、命じられた範囲の地上に満たすまで続ける。その結果、「天から降るカエル」は地界の特定地域では、地に接する場所だけではない。天からであるから天井、屋根、ベランダまでカエルが大量にみられることになる。, 人類の祖アダムが神によって土・塵埃(turbah)から創造された発想と同じく、神は天界の「両ガエル」に命じて雨滴と土・塵埃とから交じり合わせた風雨の雲から「天から降るカエル」を降らせたわけである。, 天のメソポタミアの中にいる「二匹のカエル、両カエル」ディフダアーンal-Difda”aan。神命を受けて天からエジプトの全地に分身のカエルを降らす。竜巻のような雨雲を起こし、突風と風雨のなか、土塵と雨滴とを混ぜ合わせ、卵、オタマジャクシの成長段階を黒雲の中で瞬時に終えさせる。雲から落下する時にはすでに成長したカエルとなしている。雨と共に雲から降り舞いおろして地上に落下させる。作者製作, こうした天からの奇跡のカエルは、幼生オタマジャクシの段階がなく、直接カエルとなって降ってくる。こうしたカエルには雄・雌の区別はない。自然に生まれるものでなく、いや高き神が天界の「二匹のカエル、両カエル」ディフダアーンal-Difda”aanに命じて起こした奇跡の結果なのである。, この二匹のカエルは、名称のように「第一と第二カエル」あるいは「前と後カエル」であって、語形態は男性形であるが、普段は雌雄部ついては明別されない。しかし神の命により、天から大量のカエルを降らす役割をも担う。雨雲の中、大量の風塵と降雨を受けて産卵する。瞬時に雲の中で成長段階を終え、成長を終えたカエルたちが大量に雲から地界へ雨と共に降ってくるのだ。, その折は雌雄の役割を果たし、名前からしても輝度からしても、より知られる「第一、前カエル」であるフォーマルハウトが雄の役割をして、黒い雨雲(sahaab)の中をかき回して、雌である「第二、後カエル」であるデネブ・カイトスの産卵を促して、その後オタマジャクシの成長段階を瞬時に終え、一気に成長したカエルを大量に天空から雨のごとくに降らしたのであろう。土・塵埃(turbah)の性質を利用して創造されたものなのである。雨雲から雨滴と共に降下してくる。カエルは雲から落ちてくる。だから民家の屋根にたくさん見られるのだ。地上に降った後には雌雄の性別がないものと、雄か雌かになるものがある。雌雄があるといっても、誕生したその折の吹き上がる土(turbah)の種の性質(tibaa”)で決まることになる。それゆえ一代限りのカエルである。雌雄が交尾して次世代を残すということがない。奇跡との関係性がうやむやになるからである。, 腐臭する泥水や汚水("ufuunah)でも普通に生まれ、成長するものと同類のものとみなされる。, 大量の塵埃の降雨の結果生まれるもの:多量の雨雲が風雨となってカエルを降らせ、その結果家屋の屋根などに多量にみられる。こうしたカエルは、幼生オタマジャクシの段階がなく、直接カエルとなって降ってくる。こうしたカエルには雄・雌の区別はない。性別があり場合、そのカエルが雄か雌かはその折の吹き上がる土(turbah)の性質(tibaa”)で決まることになる。自然に生まれるものでなく、いや高き神が土・塵埃(turbah)の性質を利用して天界の両ガエルに命じて創造されたものなのである。天災、天罰であるから、それゆえ役目が終わると死に絶え、腐臭漂わすもの(“Ufuunat)となる。, したがってウフーナート(“Ufuunat、単数はウフーナ“Ufuunah)「腐臭漂わすもの」がこの種の奇跡で「天から降るカエル」の名称であるとする説もある。, Kutaibah 81Dam.Ⅱ149、Jah.1-149、156、Ⅲ372,Ⅴ526, カエルが至る所いっぱいになったとして、それが何の害悪になっているのであろうか。カエルは泥の中から這いずり出て、泥だらけの身体で、食器、食べ物や居住空間などを汚す体と説明されている。また大きな鳴き声をうるさく出し、睡眠や生活を困らせた、とされる。(教文館『最初大辞典』289頁。