genre : ニュース, メディア, 社会, 国際, ライフスタイル, 歴史, 教育, 東京五輪をひかえ、訪日外国人観光客にむけたインバウンドビジネスがさかんです。今でこそ日本人のマナーはいいと言われていますが、昭和の頃は「旅の恥はかき捨て」といって、海外旅行をする日本人のマナーは良くなかったものです。いつ頃から日本人のマナーは良くなったと思いますか?(60代・女性・無職), きっかけは1964年の東京オリンピックでした。当時、東京都は外国からのお客さんに見られても恥ずかしくないようにと一大キャンペーンを張りました。東京都内の各家庭に配布されたパンフレットには、ゴミはゴミ箱に捨てること、痰を吐いたり、立小便をしたりしないように呼び掛ける注意事項が列記されていました。, 当時、私は東京都内に住む中学生。自治会総出で街の清掃作業をしたものです。街頭にはゴミ箱が設置されました。それまで道路に捨てていたゴミを、きちんとゴミ箱に捨てる習慣がついたのは、その頃からです。, 当時は大気汚染が深刻でしたから、喉にからんだ痰を吐く人が多く、電車の各駅のホームには痰壺が設置されていました。ここに痰を吐きなさい、というわけです。, 当時、電車や長距離列車がホームに着くと、我先に乗り込もうとして大混乱が続いていました。長距離列車は窓から乗り込む人も多かったのです。冷暖房などありませんから、夏は窓が全開でした。, 東京オリンピックが終わっても、列車のトイレは垂れ流し。国鉄(現在のJR)の沿線の家では干してある洗濯物に黄色い斑点がつき、「黄害問題」と呼ばれたものです。列車のトイレが徐々にタンク式になるにつれ、この問題は消えていきましたが、1980年前後でも、各地の列車のトイレは依然として垂れ流しでした。, ご質問者の指摘通り、海外での日本人のマナーも、1970年代までは最低でした。パリの高級ホテルのロビーをステテコ姿で歩いたり、ブランドショップで爆買いしたりして、ついでに顰蹙まで買っていました。, 海外で恥ずかしいことをして、評判が悪いというニュースを日本国内で見聞きするようになって、ようやくマナーの向上が始まりました。, ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号6091713号)です。, 「1度原発で働いたヤツは、原発に帰ってくる」 作業員を離さない、福島1Fの“うま味”とは, 進化した「半グレ」その犯罪の残忍な手口とは?〈暗号化アプリを活用、高齢者からセクシー女優まで標的〉, 【暴力団幹部が語る】令和の不良の行き着く先「半グレ」を現役ヤクザはどう見ているのか?, 《第2子妊娠》自然体の歌姫・浜崎あゆみの恋多き“ハートタトゥー”な人生と知られざる“DV騒動”, 「金属バットはフルスイング」「耳を切断」凶悪化する“半グレ”はヤクザと何が違うのか?《警察幹部が分析》, 韓国で『鬼滅の刃』ファンが“売国奴”と罵られる理由〈炭治郎の“旭日旗”耳飾りは変更、12月公開へ〉, 「昏睡状態の女性をレイプすることが……」すでに7人を殺害した白石被告が犯行をやめなかった理由, “ロケ行きたくない”にスタッフ唖然……小林麻耶41歳、“テレビ界追放危機”の本当の理由, 三浦春馬さん最後の出演ドラマ『カネ恋』シナリオブックで明かされた“本当の結末”と“4話完結の秘密”, 半グレ「東京ブラザーズ」とは何者か? 警察が警戒強化する“ネパール人グループ”勢力拡大, いいお話では物足りない…『ポツンと一軒家』からいつの間にか「失われたもの」――青木るえか「テレビ健康診断」, まさかの「菅・文在寅宣言」案が飛び出した…バイデン当選で苦しい韓国、ついに日本に歩み寄るか, 「萌子さんって結婚願望あるんかな?」3代目バチェラー・友永夫妻が『バチェロレッテ・ジャパン』を語りつくす, 中尾彬さん、池波志乃さんと考える「家族への想いをカタチに ~遺言書にやさしさをこめて~」相続オンラインセミナー, 「介護・医療から看取りまでワンストップで応える施設」「自宅のように快適な空間」プロが出した答えとは?, 感染症を防ぐキーワードは「粘膜免疫」と「IgA抗体」。そこで、大きな期待を集めている「乳酸菌」とは?, 《緊急アンケート》眞子さまと小室圭さんの結婚についてどう考えますか? 最新発表文では「否定的に考えている方がいらっしゃることも承知」, 緊急アンケート! 朝ドラ「エール」 あなたの「最も印象に残った回」「最も印象に残った登場人物」は?, 《緊急アンケート》大ヒットアニメ「鬼滅の刃」あなたが好きなキャラクター、好きなシーンは?, 好評開催中! オールタイム「もう一度やりたい!プレステゲーム」アンケート 中間発表!. オリンピックの閉会式は通常日曜日に行われるが、東京大会は15日間の日程であったので最終日が土曜日となった 【昔の東京五輪】昭和39年(1964)東京オリンピック雑学!海外の反応「日本すごい」 2020年に東京でオリンピックが開かれることで、改めて注目を浴びているのが1964年の「東京オリンピック」。どんな大会だったのかが垣間見れるエピソードを紹介。 苦しみの執筆論 千葉雅也×山内朋樹×読書猿×瀬下翔太:アウトライナー座談会 最新エントリー. 理想化された1964年の東京オリンピック 東京オリンピックは、3つ存在する。1940年の大会、1964年の大会、そして2020年の大会だ。このうち、1964年のそれは過剰に理想化されている。 東京オリンピックは、3つ存在する。1940年の大会、1964年の大会、そして2020年の大会だ。このうち、1964年のそれは過剰に理想化されている。 日中戦争の影響で返上した1940年の大会は戦時下を象徴し、目下様々なトラブルを引き起こしつつある2020年の大会は「失われた20余年」を象徴する。この2つの東京オリンピックはいわば「暗黒時代」を背負っており、否定的なイメージを免れない。 これに対し、1964年の大会は高度成長期を象徴し、肯定的なイメージが強い。 当時の日本は、戦後復興を成し … 第18回1964年東京オリンピックの閉会式(1964ねんとうきょうオリンピックのへいかいしき)は、大会最終日の1964年10月24日(土曜日)に国立競技場で行われた。, オリンピックの閉会式は通常日曜日に行われるが、東京大会は15日間の日程であったので最終日が土曜日となった[1]。, 東京オリンピックの最終日は国立競技場で馬術競技が行われ、競技終了後、昭和天皇・香淳皇后が出席して閉会式が行われた。すっかり日が沈みかけて夕闇が迫る国立競技場に開会式と同じようにオリンピックマーチが演奏されてすぐに入場行進が始まった。, 入場行進は、開会式と同じように防衛大学生が持つプラカードと各国の旗手だけが国旗を持って入場し、最後の日本選手の日の丸の国旗の後に整然と国別に行進する予定であった。しかし、各国の選手団が国立競技場に入る前に国別に整列し入場を待つ予定であったものの、全ての競技を終えてリラックスした各国の選手団が係員の指示に従わず、その結果入り乱れたままになって、そのままで閉会式になだれ込むような形になった。, 解き放たれたように、各国の選手たちは入り乱れたままばらばらに行進していった。国旗を持つ旗手の行進の最後尾は開催国日本の福井誠(競泳)であったが、すぐ後ろを行進する選手たちが彼を肩車して行進し、様々な国の選手が入り混じり腕や肩を組み合い入場する、かつて見られなかった形となった[2]。, 国立競技場に入場した後も選手の中にはお互いの姿をカメラで撮影[3]したり、公式スーツではなく競技用ユニフォーム[4]で参加する者もいた。さらに別の国の選手を肩車で担いだり、列になり踊る選手がいるなど秩序が無いものとなったが、そのために却ってまさに「平和の祭典」を体現した和気あいあいとした雰囲気のものとなった。こうした自由な入場スタイルは56年のメルボルン大会で初めて採用されたものだが、人気競技である陸上の日程の多くが前半で終了し、選手たちが帰国したことも手伝って盛り上がりを欠いた。60年のローマ大会では前回大会の反省を踏まえ、陸上競技の日程を後半に組み、また閉会式も厳かなスタイルに戻した。しかし、東京大会では、後に「式典の神様」と呼ばれるようになる日本体育協会式典部長の松沢一鶴が中心となって、選手村の宿泊費などの費用を日本が負担し、選手たちが喜ぶイベントを仕掛けるなど、選手をできる限り閉会式まで引き留めるアイデアを実施した。そして、閉会式が訪れると、松沢は仰天プランを決行した。男子マラソン金メダリストのアベベ・ビキラを先頭に、国、人種、性別の垣根を超え、選手が一団となって入場したのである。これが好評を得たこともあり、その後のオリンピックではこの「東京式」が採用されるようになった[5]。, 日本選手団は各国選手が全て入場した後に、一団となって組織された行進[6]で入場した。前の方はメダルを獲得した選手の集団で女子バレーボールや女子体操の選手も入り、緊張感はなく終わった安堵感を漂わせながら行進して行った。, このとき、NHKテレビで実況を担当した土門正夫は予定外の状況に戸惑い(後に『ありゃ、これは何なんだ』と入場行進で入ってきた選手を見て仰天したことをテレビ番組で語っている)、カメラに映し出される情景を随時伝えていった。予定されていたプログラムと大きくかけ離れたことから、予定にない実況を行うこととなったため、他の中継スタッフともども大変な放送をしてしまったという思いを抱いていたが、終了後に渋谷のNHK放送センターに戻ると、他の職員たちから賞賛の拍手を受けることになったという[7]。, なお、10月10日の東京オリンピック開会式にイギリス領北ローデシアとして参加したザンビアは、閉会式の日にイギリスから独立し、新国名のプラカードと新国旗を手に入場行進[8]した。, 入場行進が終わってからオリンピック憲章に従い、オリンピック発祥の地ギリシャ・日本・次回開催国メキシコの国旗が国歌の演奏とともに掲揚され、安川第五郎大会組織委員会会長の挨拶、そして、アベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会会長が閉会の宣言[9]をし、そして東京オリンピック賛歌[10]の合唱とともに聖火が静かに消えていった[11]。, 15日間にわたって掲揚されていた五輪旗がオリンピック賛歌の合唱とともに降ろされて、競技場内を一点の照明に照らされながら去っていった[12]。やがて、蛍の光が流れて女子大生たちが持つ松明の火が点々と帯のように灯され、電光掲示板に「SAYONARA(さよなら)」「WE MEET AGAIN IN MEXICO(メキシコでまたお会いしましょう) 1968」と表示された。この後、再びオリンピックマーチが流れて、各国選手団はまた賑やかにお祭り騒ぎのように陽気に踊りながら、競技場を去って行った。観客たちはしばらく夜空に打ち上げられた花火を見ながら興奮の余韻に浸っていた。, オリンピック夏季大会は通常16日間開催で、土曜日開会式で16日目の日曜日夜に閉会式が行われることが多い。ところが東京大会は何故か15日間開催で、土曜日夕方に行われた。これは当時は競技終了後帰国する選手が多く、閉会式に参加する選手が少なかったとのことで1日早くしたという説もある。, その後の大会ではお馴染みになったが、この当時はカメラ厳禁をIOCは通知していて、実際は少なかった。, BSスペシャル『青春TVタイムトラベル』 第4回 プレイバック・東京オリンピック(, 最近の大会では、主催国への賛辞と感謝の言葉を述べて長い挨拶になるのが普通だが、この当時は予め定められた言葉で語り、短いものであった。「国際オリンピック委員会を代表して、私はここに第18回競技大会の閉会を宣言します。そして伝統に従い4年後メキシコにて開催致します。」, この東京オリンピックの時だけに作られた賛歌で、開会式用Aと閉会式用Bの2曲があった。, その後の大会でも五輪旗の降納は賛歌の合唱と一点の照明に照らされながら場内を去っていく形が多い。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=1964年東京オリンピックの閉会式&oldid=79207854. 1964年10月10日、東京で第18回オリンピック東京大会開会式が行われた。「オリンピック憲章」によると開会宣言は開催国の国家元首が行うことになっており、この大会ではブランデージIOC会長の要請により、昭和天皇が恭しく宣言した。陛下の入退場にあたっては当時の日本を代表する作曲家である黛敏郎の電子音楽が奏でられ、新旧の組み合わせに、時代の斬新さが現れていた。, この日実況中継をしたアナウンサーは「世界中の青空を集めたような快晴」であると見事な表現で描写した。前夜の激しい雨が嘘だったかのようなこの秋晴れが、その後15日間の、オリンピック史上、特筆されるような大会の成功を導いた大きな要素になったということをわれわれ関係者はその後、末永く語り合ったものだ。, 米軍による空爆や艦砲射撃で全国のほとんどの主要都市が廃墟となってからわずか9年で日本は1960年のオリンピック招致に立候補し(この時は落選)、次の1964年大会を射止め、敗戦から19年目にして94もの国と地域の参加者を得、実際にオリンピック大会を開催した。時のIOC会長ブランデージ氏をして、「見事に最高級のオリンピック大会を開催した」とまで言わしめたのであった。, 東京五輪の施設を視察に訪れたアベリー・ブランテージIOC会長(左から3番目)(時事), あれから約半世紀を経た2013年9月、日本は2020年の東京オリンピック招致決定に沸いた。しかし、招致決定から1年を経た今日、遺憾ながら、あの興奮はどこに行ったかというほど、6年後のオリンピックに対する一般の関心は薄く、準備はようやく緒についたという程度に過ぎない。その大きな原因は、組織委員会が今もってこのオリンピックの明確なコンセプトや発信すべき哲学をまとめ切れていないからであり、夢もアイデアも十分結集されていないからであると私は見る。, 50年前には日本の「戦後の復興」や「科学技術先進国」であることを世界に示すというコンセプトがあったが、私自身は次期東京オリンピックの機会を「平和」「調和」「協力」を前面に出し、この機会を「世界に発信する日本」になればと期待している。, 東京が最初にオリンピック招致に成功したのは1936年、ベルリン・オリンピック開催時に行われたIOC総会で、4年後、1940年に第12回オリンピック競技会の開催について票決したときであり、38年のカイロでの総会ではこれに加えて、同年に札幌で冬季オリンピック競技大会を開催することも決せられた。夏冬ともアジアで初めて、有色人種の国では初めての開催となるはずだった。, しかし、日本は既に大陸での戦争に深入りし、鉄鋼をはじめ主要な軍需物資が不足しがちという中で、まず軍が「馬術競技に騎兵将校を派遣できない」と言い始めた。当時、馬術競技は各国の騎兵将校間の競技であり、女子も単なる馬乗りが好きな者も排除されていた。したがって、これは馬術競技を日本では開催できないということに他ならない。最終的には38年秋、所管の厚生省から開催都市である東京市に返上すべきとの通達が出され、東京・札幌の両大会は招致で苦労を重ねたスポーツ関係者が涙を飲む中で返上された。, 代替開催地とされたヘルシンキ大会も「冬戦争」(第一次ソ連・フィンランド戦争)のため、流会となり、44年に予定されていたロンドン大会も第2次世界大戦のさなかであり、開催できなかった。, 話は前後するが、1940年大会の準備状況を顧みると、われわれの先輩はそれなりに夢を描いていたことが判る。, ベルリン・オリンピック大会では五輪史上初めて、聖火(Olympic flame)リレーが行われた。これはカール・ディエム同大会組織委事務総長の発想でギリシャのオリンピアから運ぶ7カ国を経て各国のランナーによって聖火が引き継がれ、ベルリンまで搬送されたものだ。当時の日本では、これと同様にオリンピアからユーラシア大陸を横断しての陸送を発想し、それなりに検討していたのである。しかし、当時は通信、道路、車両など諸事情が今とは比較にならぬほど未発達であり劣悪だったし、ソ連にはNOCもなく、中国とは戦火を交えている状況であって、これはあまりに現実離れした夢物語に過ぎなかった。, ベルリン大会から12年を経て戦後、1948年、サンモリッツ(スイス)での冬季大会とロンドンでの大会でオリンピックは復活した。しかし、日独両国はこの2大会には参加を認められなかった。スポーツに国境もあり、政治もあるという典型的な先例である。両国の復帰は52年2月のオスロ冬季大会と同年夏のヘルシンキ大会からであり、ベルリン・オリンピック以来実に16年ぶりにオリンピックに参加できたのであった。, 1964年の東京オリンピックを進めた中心人物は田畑政治(たばた・まさじ)。日本水連の会長であり、日本のスポーツ界にこの人ありと言われた優れたリーダーである。48年のロンドン大会に招かれないと知ると、同じ日に東京の神宮プール、水泳の日本選手権大会を開催し、古橋・橋爪らにロンドン五輪の優勝タイムを大きく上回る高成績を挙げさせるなど、努力と工夫と忍耐の人だった。, 東京大会には94の国と地域の代表が参集した。オリンピック競技の盛んな欧米から見れば、極東という、文字通りの遠隔地に位置する日本での開催だったが、この大会を着実に成功させたことで日本は、戦後19年目にして、戦禍からの復興を世界に示すことができた。開会式の見事な進行、各競技の滞りない実施、選手村の管理と運営のすばらしさ、社会機能の効率と安全は各国からの選手・役員、報道人を驚嘆せしめた。また、それまでに日本が保有していた目立ったインフラはせいぜい東京タワーという333mという、当時、世界一の高さのテレビ塔くらいのものであったが、各国の支援を受けつつ、世界初の高速鉄道である東海道新幹線、首都高速道路、世界の建築史に名を残すような屋内外の競技場を建設・整備し、さらに人工衛星により世界で初めて、オリンピックの同時テレビ中継に成功した。これは電子化された計測と記録などとともに、「日本の技術力」を証明するものであった。そして日本はこのオリンピックを機会に、右肩上がりの高度成長を加速させた。, 中華民国(台湾)と中華人民共和国(中国)のオリンピック参加は常に大きな課題となってきた。ヘルシンキ大会(1952)直前のIOC総会で双方の参加が認められたが、台湾がこれを不満としてボイコットしたのが始まり。東京大会では開会式の入場行進にあたり、「TAIWAN 中華民国」という今になってみれば摩訶不思議のような表記のプラカードで台湾のみが参加した。このため中国が不参加、北ベトナムも不参加だった。, 五輪開催に先立ち、スカルノ・インドネシア大統領が池田勇人首相と会談=1964年1月、東京都内(時事), 加えて、1962年開催の第4回アジア競技大会にインドネシアのスカルノ大統領が台湾とイスラエルを招かないことから始まったIOCとの混乱で、日本は東京オリンピック組織委の会長と事務総長の首を差し出し、2年後の東京大会取り消しを防がなければならなかった。また、GANEFO(新興国競技大会)参加選手への資格停止処分をめぐり、インドネシアは東京まで選手団を送り込みながら、IOCが東京大会への参加を認めず、帰国させられた。北朝鮮選手団も万景峰号で来日していたが、女子800mの記録保持者で、金メダル確実と言われた辛金丹選手と、先に脱北していた父親とのわずか15分間の対面という悲話を残して、同様の結末となった。, 冷戦真っ最中の時代でもあり、東京大会の開催期間は内外情勢が誠に多端だった。開会式から7日目、中国は初の核実験を行った。これは古代オリンピック以来、平和を掲げるオリンピック精神を無視するものであり、「アジア初」のオリンピックを誹謗するものであった。各国からの選手・役員、報道人が選手村やプレスセンターで驚きと落胆の声を挙げていたのが忘れられない。, ソ連は大選手団を派遣したが、同時に日本周辺空域に何度か戦闘機を周回させ、航空自衛隊はその都度スクランブルで対応した。そうこうしているうちにフルシチョフ第一書記が更迭された。, 「ベルリンの壁」の設置直後ではあったが、東西ドイツは統一チームで参加した。組織委では両国に共通な黒赤金の横三色旗をベースとし中央に白で五輪を抜いたものを用意した。当時、東ドイツの国旗はその中央にディバィダー、ハンマー、小麦から成る国章、西ドイツはワイマール時代と同じその横三色旗のままという国旗であった。, 日本でも池田勇人首相が、オリンピックの閉会式の翌日、病気のため辞任した。後任の佐藤栄作首相は日韓国交復興、小笠原・沖縄の復帰を果たし、1972年にノーベル平和賞を授与された。このことは、率直に言って日本人には意外感があった。しかし、これは戦後一貫して非核平和国家としての日本の安定な社会を日本人全体が推進してきたことに与えられた賞と納得し、その中には見事な東京オリンピックでの発信も大きな業績であると私は勝手に合点したのだった。, 1941年生まれの私は物心ついて以来、同一世代で、日本が最大被援助国と最大援助国となるという両方を経験した。国際社会においてこれは稀有なことであり、その経験をスポーツや文化のみならず、世界の安定と発展のために活かして行かねばならない責務が日本にはあると信じる。, 2020年までに残された時間は決して十分なものではないが、その成否は国際情勢の安定が第一である。しかし、現実の世界はウクライナ、シリア、イラクなど各地で戦火が絶えない。オリンピックが単なる「大きな運動会」ではなく、世界の平和と安定に大きく寄与するきっかけとなるものであってほしいと祈念する。, タイトル写真=東京五輪の開会式。大観衆が拍手をする中、日の丸を先頭に入場する日本選手団=国立競技場、1964年10月10日(読売新聞/アフロ), 東京 北朝鮮 しかし、オリンピック開催の真の意義は、大会後にどのようなものを残すことができるかにあるのだ。, 東京オリンピックは日本のスポーツ界に有史以来の大きなインパクトを与えました。まず、金メダル16個を含む計29個のメダルを獲得し、国際競技力のレベルで、いくつもの競技が「世界に追いつけ、追い越せ」を実現し、あるいは実現可能な手応えをつかみました。, オリンピックの翌年、サッカーが先鞭をつけた実業団による日本リーグは、バレーボール、バスケットボールなど多くの競技に広がり、トップレベルの戦力強化に貢献しました。, 他方、東京オリンピックのコーチや選手だった人々が、同じくオリンピックの翌年から始めた水泳、体操などを中心とするスポーツのクラブ(スクール、教室)は、たちまち全国に波及し、幼児から家庭の主婦、中高年まで、幅広い人々が参加するようになりました。, 1970年代初頭に世界的になったスポーツ・フォア・オール(国民皆スポーツ参加)運動の「日本版」は、東京オリンピックの開催をきっかけとして生まれたのです。歴史に「…たら」「…れば」は禁物といわれますが、もし、あの時期に東京オリンピックがなかったら、わが国のオリンピック・スポーツの発展は今日と同じではなかっただろうと思います。, 講道館柔道の開祖・嘉納治五郎のIOC委員就任(1909年=明治42年)によって始まった日本のオリンピック運動は、1932年のロサンゼルス大会(金メダル7、銀メダル7、銅メダル4)と、続く1936年のベルリン大会(金メダル6、銀メダル4、銅メダル10)での水泳・陸上競技を中心とした活躍で、まずは世界の仲間入りをし、そして東京が1940年の第12回オリンピック開催権を得ながら、日中戦争の進展など、国際情勢の悪化によって、これを返上せざるを得なかったことはご承知の通りです。, 続く太平洋戦争で欧米主要国を敵に回したことから、日本スポーツ界はIOCをはじめ、すべての国際競技連盟から除名または資格停止されました。再び仲間入りできたのは、いずれも戦後4、5年以上経ってからであり、このため戦後初のオリンピックである1948年(昭和23年)のロンドン大会には参加できずじまいでした。, こうした事情で、日本は戦前戦後を通じて10年余もスポーツ国際交流に空白をつくりました。そこで、この立ち後れを解消し、再び世界に雄飛する起爆剤として、日本体育協会(体協。日本オリンピック委員会=JOCは、当時体協の一組織)は、東京都の同意を得て、今度こそ東京オリンピックの開催を実現しようと考えました。, そして、日本が復帰できた戦後2度目のオリンピック、1952年(昭和27年)7月の第15回ヘルシンキ大会に先立ち、1960年の第17回大会開催地に立候補。これは時期尚早で根回しも十分ではなく、失敗に終りましたが、続いて1958年(昭和33年)、今度は1964年の第18回大会に立候補、翌年5月にミュンヘンにて開催されたIOC総会で首尾よく宿願を達成しました。.