▲6八銀左という新手を指して勝っている。, また、同じ振り飛車党に対しても大山に対しては位取りをメインにした持久戦を、森安に対しては鷺宮定跡(急戦)を採用するなど、 相手によって戦法を変えることを明言していた。, 四冠王になる前には、「角頭歩戦法」や「新鬼殺し戦法」といった奇抜とも言える序盤戦術を開拓していた。「角頭歩戦法」はタイトル戦(1975年(昭和50年)の王将戦第1局)の舞台で使用し、大きなインパクトを与えた。しかし「角頭歩」についてはすぐ相手側の「回避策」が出てしまったが、それに影響を受けた戦法「立石流」の源泉となった。また「新鬼殺し戦法」は初心者向けのハメ手と戒められていた鬼殺しを立派な一戦術として確立させている。また2011年(平成23年)12月21日に行われたコンピュータ将棋「ボンクラーズ」とのエキシビジョンマッチで敗北したものの、ボンクラーズの初手▲7六歩に対し2手目に△6二玉(本人は「新米長玉」と呼称している)という珍しい手を繰り出した。, 四冠王となった頃に「米長流急戦矢倉」の開発、対振り飛車における「玉頭位取り」や「鷺宮定跡」の整備といった功績がある。, 「矢倉は将棋の純文学」という有名な表現は米長の言葉である[47]。これは米長によれば(矢倉は)高尚である、と言った意味での発言ではなく、角が上下にギザギザネチネチと動き、ネチネチと押したり引いたりし、相手の出方を見てネチネチと手を変え、と言ったそのネチネチさを指して「純文学」と表現したとのことである[48]。, 詳細は後記の年表を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照, ※中原との対局数と勝数は、米長四段と中原三段(奨励会在籍)の対局で米長が勝利した1局(米長の公式戦対局数と勝数に含まれる)とタイトル戦での持将棋1局を含む。, タイトル戦12連敗(1987年名人戦第3局から1989年名人戦第4局まで)は記録である。, 現在、米長の著書・著作は、明子夫人が著作権継承者となり[52]、一部の書籍で電子書籍化などが行われている。, 『将棋博物館」閉鎖で木村名人の娘を怒らせた「米長会長」』 週刊新潮 2006年(平成18年)11月30日号, 『ふたたび運を育てる - ピンチとチャンスは同じもの』37頁 米長邦雄著 クレスト社 1998年(平成10年)6月, 米長はこの手について「練りに練った作戦でしたが、負けると「奇策」などと書かれます。」と、一部報道に対し嫌悪感を示している。, 後手番森安の四間飛車に先手番の米長は▲5七銀左から鷺宮定跡含みの駒組みを進める。森安の△6四歩を見て米長は▲4五歩と仕掛けたが、ここで森安は△7四歩と突いた。当時はそれが普通だったのだが、米長はこの局面で▲4六銀の新手から作戦勝ちを収め、そのまま勝利する。米長曰く、「△7四歩の先に△6三金であったら、この手(▲4六銀)は成立しなかった」という(角交換後の▲3一角がない)。その後、△6四歩▲4五歩の局面では△6三金が一般的となり、先に△7四歩と突く形は姿を消した。, 第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあり、第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31 - 35期の順位戦は存在しない。つまり、米長のA級以上在籍は、26期連続である。, http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121218-OYT1T00602.htm, https://www.shogi.or.jp/news/2012/12/post_666.html, https://www.shogi.or.jp/news/2013/01/post_677.html, 寄附講座「思考の可視化」を開設 - 日本将棋連盟の米長会長を特任教授に招へいし、人工知能などの研究を推進 - (北陸先端科学技術大学院大学), https://www.shogi.or.jp/news/2012/12/post_663.html, 「人生の投了、早すぎた」米長さん葬儀に700人 最後の別れ惜しむ - (産経新聞), https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37839660W8A111C1CR8000, http://www.jcp.or.jp/akahata/web_daily/html/pr/20111123-miryoku.html, 日本将棋連盟米長邦雄会長の弾けっぷりが話題 | web R25 2011年(平成23年)6月1日, 「米長邦雄永世棋聖vsボンクラーズ プロ棋士対コンピュータ将棋電王戦」のお知らせ!|将棋ニュース|日本将棋連盟, 「米長邦雄永世棋聖 vs ボンクラーズ プロ棋士対コンピュータ 将棋電王戦」のプレマッチ ボンクラーズの勝利!|将棋ニュース|日本将棋連盟, 「米長邦雄永世棋聖 vs ボンクラーズ プロ棋士対コンピュータ 将棋電王戦」 ボンクラーズの勝利!|将棋ニュース|日本将棋連盟, 日本将棋連盟 将棋コラム「【今日は何の日】12月12日は米長永世棋聖最後の公式対局。相手は現王将の郷田真隆九段」, https://www.shogi.or.jp/news/2007/10/post_122.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=米長邦雄&oldid=80098637, ()内は連勝数。5連勝以上で公式棋戦優勝相当。連勝が次年度に継続した場合も勝抜きの対象。2003年(第22回)で終了。, タイトル戦の氏名は対戦相手。色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)。色付き以外のマス目は敗退。, 米長の将棋1 居飛車対振飛車上 平凡社, 1980.6(MYCOM将棋文庫DXとして2004年復刊), 逆転のテクニック 悪い将棋はこう指せ! 上・下 日本将棋連盟, 1984.11(のち、将棋連盟文庫), 碁敵が泣いて口惜しがる本 “将棋”の天才が発見した囲碁必勝の秘訣 祥伝社, 1985.4, 人生一手の違い 「運」と「努力」と「才能」の関係 祥伝社, 1989.12(のち文庫、ノン・ポシェット), 米長の勝負術 実戦次の一手70問+さわやかエッセー70題 毎日コミュニケーションズ, 1995.11, 名人の脳ドリル詰将棋 面白くて脳に効く! 米長邦雄監修 主婦と生活社編 主婦と生活社, 2008.3, 癌ノート ~米長流 前立腺癌への最善手~ ワニブックスPLUS新書, 2009.10. 「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」 こう発言した将棋界の大物がいます。 「米長邦雄永世棋聖」 今回はその言動とエピソードを紹介します。 まずは簡単に本人紹介から… 1943年生まれ; A級在位26期 出典http://promontory.cocolog-nifty.com/promontory/2012/12/post-2b23.html, 史上三人目の四冠王になったことも!現役引退の後は将棋連盟会長としても活躍していました。, さてここから本題の言動とエピソードですが、まずはじめに一番の上の写真ですが、これは将棋連盟の公式サイトの写真です。, 升田幸三に「彼だけは会長にしてはいけない」と言われているにも関わらず会長職再任まで果たしました。, 上記の成績からもわかるように現役時代はかなり強い棋士で、初代竜王をかけた竜王戦七番勝負にも登場しており、島朗九段と初代竜王のタイトルをかけて闘っています。, 初代竜王になれなかったその悔しさとストレート負けの悔しさは相当なものだったのでしょう, 当時の米長九段はタイトル戦が行われたそのホテルで自室から大浴場まで「ギャオーッ」と絶叫しながら全裸で疾走しました。, 他にも、45歳で南芳一から王将を奪取した際には、打ち上げの際に「まあ滅多に他人には見せないんですけど」と言いつつ 弟子の先崎学と歓喜の裸踊り。, watchboy24さんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog https://therocksteady-blog.tumblr.com/post/29229652348/追悼中上健次, notomiya(himawari、neo、Sea and Mountain powers). !」である。これが伊藤の闘志に火をつけ、三段リーグを2位で卒業し、四段昇段を果たした。, 「米長邦雄永世棋聖vsボンクラーズ プロ棋士対コンピュータ将棋電王戦」と称してコンピュータ将棋ソフトと2012年(平成24年)1月14日に対戦することが、2011年(平成23年)10月6日に発表された[27]。, 2012年(平成24年)1月14日のボンクラーズとの対局で、プレマッチに引き続き奇策、先手7六歩に対し後手6二玉を採用した[28][29][30]ものの、後手の米長が113手で敗れた[31]。, 米長自身は電王戦敗戦後に書かれた自著『われ敗れたり』で、コンピューターに読ませない将棋にするのが狙いの練りに練った手で、これが成功し途中までは大優勢だったと述べている[32]。, なお『われ敗れたり』には、タイトルホルダーを含めた複数人のプロがボンクラーズに大きく負け越したと書かれており[33]、今後展開されるであろうソフトがいつプロを追い抜いたかという議題においては重要な起点となることが予想されている。, プロ入りしたのは1963年(昭和38年)で、ちょうど大山康晴が五冠独占を続けていた時代に当たる。A級昇級は1971年(昭和46年)、初タイトルは1973年(昭和48年)の第22期棋聖戦で、それぞれ数え年で28歳、30歳の時と、超一流と呼ばれる棋士の中では出世は遅い方であった。, 1970年(昭和45年)、王位戦で大山康晴に挑戦。これがタイトル初挑戦である。これを含め、大山とのタイトル戦で4連続奪取失敗をする。大山からのタイトル初奪取は、1983年(昭和58年)の1982年度・第32期王将戦まで待つ[35]こととなる。, 1973年(昭和48年)、第22期棋聖戦で有吉道夫を破り、初のタイトル獲得。最終局の終盤、劣勢の中でトン死の筋(金を取りながら詰めろ馬取り)で大逆転。米長曰く「対局相手の有吉さんは、トン死の筋に気づいた時30センチくらい飛び上がった」という。, 中原誠は、大山以上の天敵であった。1973年度の王将戦に始まり、タイトル戦でなかなか中原に勝てなかった。, 2年連続で中原王将への挑戦者となった1975年(昭和50年)の1974年度・第24期王将戦では、七番勝負開幕前のインタビューで「第一局では中原王将(当時)があっと驚く奇策を考えている」と発言。その言葉通り、先手番となった第一局では三手目に▲8六歩と突く角頭歩戦法を見せるが、後手番の中原誠は冷静に△4四歩と応対。角頭歩戦法の肝とも言える角交換を封じられた米長はいいところなく敗れ、以後角頭歩戦法を公式戦で用いる事はなかった。一方の七番勝負も3勝4敗と、第一局での敗戦が最後まで影響する結果となった。ちなみに中原誠は、この時の七番勝負第七局(最終局)を「米長さんとの最も印象に残っている一局」として挙げている。中原誠曰く「タイトル戦七番勝負の第七局で、双方残り一分の秒読みになったのは、後にも先にもこの時以外記憶にない」からである。, 中原への8度目の挑戦となった1979年度・第20期王位戦はフルセットの戦いとなり、最終局での千日手指し直しの戦いの末に奪取。ようやく中原に一矢を報いた。, 1984年度、中原誠と十段戦七番勝負を戦う。フルセットで迎えた最終局(1985年1月)に勝利し奪取。史上3人目の四冠王となり、7つのタイトルのうちの過半数を占めた。俗に「世界一将棋の強い男」とも称された。しかし、名人位にだけはなかなか手が届かなかった。, この1980年代前半に米長と最も多く対局したのは中原誠ではなく、振り飛車の雄・森安秀光であった。A級順位戦やタイトル戦などでの森安との激闘は居飛車対振り飛車、特に居飛車急戦の戦術発展に大きく寄与した。その一例が1985年3月の第42期A級順位戦最終局である[36]この一局、森安が勝てば6勝2敗となり、最終局が抜け番だった中原王将(当時)(同じく6勝2敗)に並び、プレーオフとなるところだった。一方の米長は勝っても負けても名人挑戦や降級には関係ない一番だった。この対局で新手を放ち勝利する。米長哲学を実践した一例とされる。, 米長は、早指しの棋戦でも力を発揮した。早指し将棋選手権で、1974・1977・1979・1980年度に優勝、日本シリーズでは、1980・1984・1986年度に優勝、NHK杯戦でも1978年度に優勝した。また、公式戦ではないが、決勝戦が持ち時間15分・1分の考慮時間10回の富士通杯達人戦でも、歴代2位タイとなる4度の優勝を果たしている[37]。, 横歩取り戦法が流行していた頃、1990年(平成2年)の1989年度・第39期王将戦で挑戦者となった時に、「横歩も取れない様な男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、南芳一王将(当時)を挑発した。この時は弟子の中川大輔四段(当時)のアパートに通い、南対策を教わったと自身の著書で書いている。南は対局で横歩を取った。この七番勝負は4-3で米長が王将位を奪取、うち2局が横歩取りとなり、1勝1敗であった。しかし翌年1991年(平成3年)の1990年度・第40期王将戦で挑戦者となった南に2-4で敗れ防衛に失敗する。, 1993年(平成5年)、第51期名人戦で7度目の挑戦者となり、中原名人をストレートで降して初の名人位を獲得した。49歳11か月での獲得、50歳での在位(50歳名人)は、2020年度名人戦終了時点で史上最年長記録である[38]。新宿の京王プラザホテルで行われた名人就位式・祝賀パーティーには、2,000人を超える異例の人数の参加があった。会場には新たにA級に昇格した羽生善治もおり、席上で米長は羽生を指して「あの子が来年、私のクビを討ちにやってくる」とスピーチしていた。その予言通り、翌年の第52期名人戦は、A級1年目にして名人挑戦を果たした羽生に2勝4敗で破れ、防衛に失敗する。以降は各棋戦の本戦に顔を見せることはあっても、タイトルを獲得することはなく、挑戦者になることもなかった。, 1998年(平成10年)、第56期順位戦で4勝5敗の成績ながらリーグ表順位の差で、26年連続で在籍したA級からの降級が決まる。B級1組で指す道を選択せず、フリークラス宣言をして順位戦から撤退し、名人挑戦の可能性を残す道を自ら断った。, 2003年(平成15年)4月、記者会見を開き、勝ち残った棋戦のみ指し続け、すべて負けた場合に引退届を提出することを予告する異例の表明を行った[40][41]。当時59歳(実際の引退時は60歳)の米長の立場では規定により65歳が定年であったが、これを約5年早めるものであった。各棋戦の予選で敗退を重ねていく中で第53期王将戦は、予選で2人のA級棋士(三浦弘行・藤井猛)を破り、60歳で挑戦者決定リーグの参加を果たす[40][42]。しかし、初戦から3連敗を喫して挑戦権争いから脱落することが確定し、4回戦の前日に改めてリーグ終了後に引退届を提出することを宣言した[41]。翌日の対局は、佐藤康光棋聖が相手であったが、佐藤は米長に敬意を払い和服(羽織袴)を着用して下座に着いていた(本来はタイトル保持者の佐藤が上座)。朝、対局室でこれを知ったスーツ姿の米長は、すぐに自身の事務所に連絡して和服を取り寄せ、午後から和服姿で対局した[41]。第5局は森内俊之竜王であり、森内もまた先に対局室入りすると和服を着用して下座に着いていた[43]。事前に察していた米長も今回は最初から和服を用意しており、森内に上座に座るよう勧めたが、森内の意思が堅いと知ると諦め、その代わりに玉将を自玉として森内に敬意を表した(本来は上座が王将、下座が玉将)[43]。12月12日、最後の公式対局となった第6局の相手は郷田真隆であり、同じく共に和服での対局となった[40][44]。当日は、羽生名人と森内竜王の事前の提案で、特別対局室で行うこととなり、後手番の米長が力戦形に持ち込む難解な終盤戦となったが、郷田が勝利した。感想戦後には花束が送られるなどし、最後に報道陣に「これから新しい人生のスタートです。応援してください」と言って対局室を去った[44]。, 予告通り12月17日に引退届を提出し、約40年の棋士生活を終えた。ただし、連盟の専務理事として運営には関与を続け、2005年には連盟会長に着任して死去する2013年まで同職を務めた。, 厚みを重視し、劣勢になると自陣に駒を打ち付け複雑にして逆転を狙う棋風から、「泥沼流」と呼ばれる。本人の性格や見た目から「さわやか流」と呼ばれていたこともあり、米長本人は後者の方が好きだったと言う(ただし、棋風との関連は不明)。, 弟弟子である丸山忠久は、米長将棋の特徴について「米長先生の棋風は『さわやか流』、『泥沼流』などと評され、清濁併せ呑むというのが一般的なイメージかも知れません。しかし、私は清から濁、濁から清への転換の見事さこそが米長将棋の本質だと考えています」と述べた上で、「清なら清、濁なら濁がずっと続くわけではなく、鮮やかに切り替わるのです。その変わり身の速さは、おそらく誰も真似できないでしょう。これが米長将棋の最大の魅力だと思っています」と、局面に対する柔軟性の高さを評価している[45]。, 居飛車本格派ながら、定跡研究などによる序盤の構想よりも中~終盤の攻防でねじ伏せる勝利が多く、特に将棋の終盤戦術の向上に貢献した。その独特の感覚は「米長玉」などに表れており、現代将棋の終盤の基本パターン「自分の玉を‘Z’(ゼット、絶対詰まない形)にして攻めまくる」に、大きな影響を与えている。四冠王になるなど絶頂期にあったときには、自著『逆転のテクニック』[46]の中で序盤研究に否定的な見解を示し、詰将棋で鍛え抜いた読みの力をベースに劣勢になっても相手のミスを招く勝負術ならびに終盤力が将棋における勝負の本質であるとの見解を示していた。, 若手時代から「序盤下手」と揶揄されることが多かった(谷川と共に「序盤の二下手」と呼ばれたこともある)一方で、羽生善治は米長の序盤を「序盤から息を抜けず緊張感を強いられる序盤巧者」と評している。ただ、定跡に挑戦するチャレンジ精神は相当あり、対山田戦では