ID: vb3iX5uHJL, 2020/06/20(土) 18:41:04 竜王戦の第4局が羽生九段の入院によって延期になりましたが対局場の「吉川屋」に対して将棋連盟あるいは主催社は補償の様な事をするのでしょうか? 将棋棋士米長邦雄永世棋聖という人は毀誉褒貶の激しい人です。私生活では千人切りを豪語し数々の浮名を流しました。連盟会長としては棋士たちの年金改革を断行し顰蹙を買… ID: qXogg6+wBV, 2019/10/27(日) 10:06:17 Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. 羽生九段が入院しました。陰性なのは良かった。 将棋世界1982年1月号、読売新聞の山田史生さんの第20期十段戦七番勝負第1、2、3局盤側記「加藤米長、盤外でも闘志」より。 加藤一二三十段と米長邦雄棋王による十段戦七番勝負が始まる前、キャッチフレーズを作ることの好きな米長は、こういった。 ID: +GusIIxOMX, https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E7%B1%B3%E9%95%B7%E9%82%A6%E9%9B%84, 推奨環境:Edge, Safari, Chrome, Firefox, Opera いずれかの最新版, 米長邦雄永世棋聖 vs ボンクラーズ プロ棋士対コンピュータ 将棋電王戦 特設ページ, 『先生を消す方程式。』“義澤”田中圭、“筋トレ”シーンにネット歓喜「良い筋肉! 詐欺メールが届きました。SMSで楽天市場から『購入ありがとうございます。発送状況はこちらにてご確認下さい』 と届きその後にURLが貼られていました。 ID: An6sUakSex, 2019/10/27(日) 10:47:42 ID: An6sUakSex, 2019/03/09(土) 10:34:06 ID: WdIYlRkJHk, 2020/04/25(土) 01:30:49 もしも米長邦雄永世棋聖が生きていれば三浦九段のソフト指し疑惑は出なかったと思いますか? ID: SdIIEOtbF2, 2019/05/18(土) 09:24:27 橋本崇載八段は一応順位戦の対局料はもらえるのですか?もらえないなら勝てなくても休場せずに出た方が良くないですか?, 羽生善治さんが病名不明で竜王戦が延期になりました。 これは読みの考え過ぎによる脳のオーバーヒート知恵熱でしょうか?, ヤフー将棋モバゲーが11月で終了なので他に似たようなオンライン将棋を教えてください. タイトル戦への初登場は、山田道美八段[9]に挑戦した1967年度後期の第11期棋聖戦であるが、フルセットの末に敗退する。しかし、半年後の1968年度前期の第12期棋聖戦では、2次予選で升田幸三九段、本戦1回戦で二上達也八段、準決勝で大山康晴四冠(名人、王将、十段、王位)、挑戦者決定戦で板谷進六段と強豪を連破して連続で山田に挑戦すると、3勝1敗で勝利し初のタイトル・棋聖位を獲得する。, その後、大山康晴、山田を相手に2期防衛して棋聖3連覇。これ以降、大一番の勝負で大山康晴と頻繁に当たるようになる。, 1970年度、十段戦で大山を4-2のスコアで下し、大山の五冠独占の一角を崩す。さらに、直後の後期の第17期棋聖戦(中原3-大山0)でも大山をストレートで破り、初めて二冠となる。続く1971年度前期の第18期棋聖戦(中原3-大山1)で大山を相手に防衛に成功。これで棋聖位獲得通算5期となり、早くも永世称号の保持者となる(史上最年少記録)。この2つの年度は、タイトルホルダーが大山と中原の2名だけという、まさに二強時代であった。, A級2年目に名人挑戦権を得て、1972年の第31期名人戦七番勝負(中原4-大山3)で大山と戦う。フルセットの戦いの末に勝利し、棋界の頂点である名人位に初めて就く。この年度は、初めて三冠王となるとともに、大山を無冠に転落させた。なお、この後、大山が名人位に復位することは二度となかった[10]。, 1973年度からは、米長邦雄、加藤一二三、内藤國雄ら、大山康晴より若い、同じ世代の棋士達との戦いが主となる。特に、米長とはタイトル戦で数々の死闘を演じた。, 1973年、第14期王位戦(中原4-内藤0)で内藤國雄から王位を奪い、初めて四冠王となる。しかし、直後の十段戦で捲土重来を期す大山に奪取される。それから1年間、三冠を防衛した中原は、翌年(1974年度)に十段を奪還して四冠に返り咲く。以降、中原と大山は、それぞれのタイトルを防衛し続け、1974年度から1977年度途中まで、, という構図が続き、中原は防衛戦で同世代のライバル達と当たる。大内延介と戦った1975年の名人戦(中原4-大内3、持1)では、途中2勝3敗となり角番に追い込まれるも、第7局で大内必勝の局面での大内の悪手(107手目▲7一角)に助けられて持将棋に持ち込み、薄氷の逆転防衛をする。翌1976年の第35期名人戦(中原4-米長3)でも防衛に成功して名人5連覇。永世名人(十六世名人)の資格を得る。, 1977年度後期の第31期棋聖戦(中原3-大山2)で大山からフルセットの末、棋聖を奪取し、大山に次いで史上2人目の五冠王となる。残るタイトルは棋王のみとなり、この年度、第3期棋王戦(中原0-加藤3)で加藤一二三に挑戦したが、ストレートで敗れ、全六冠制覇はならなかった。, その後は中原の相対的な不調と、米長・加藤の充実もあり、彼等とのタイトル戦での対戦は五分に近い成績となりタイトル数は漸減する。加藤一二三と対戦した、1982年度(第40期)名人戦では、持将棋・千日手を合わせて俗に「十番勝負」と呼ばれた名勝負となったが、3勝4敗で名人位を明け渡す。名人連覇は9期で終わった。, 1980年代半ばごろからは、谷川浩司や55年組の高橋道雄、中村修、南芳一、塚田泰明らとのタイトル戦での勝負が主となり、保持するタイトル数が三冠ないしは無冠となっていく。, 1985年度、第43期名人戦(中原4-谷川2)で、前々期に史上最年少名人となっていた谷川から名人位を奪取して復位。翌1986年の第44期名人戦では大山が挑戦者の名乗りを挙げたが、中原が防衛。二人がタイトル戦の舞台で顔を合わせたのは、これが最後となった。, 1987年度、第35期王座戦(中原2-塚田3)で王座を塚田泰明に奪われ、名人のみの一冠となる。さらには、翌年度(1988年度)、第46期名人戦(中原2-谷川4)で谷川に名人を奪われ、無冠の「前名人」となる。しかし、同年度の第36期王座戦(中原3-塚田0)で塚田から王座を奪還し、後期/第53期棋聖戦(中原3-田中2)では弟弟子である田中寅彦から棋聖を奪い、二冠に復帰。, 1990年度、第48期名人戦(中原4-谷川2)で名人を谷川から奪還し、2度目の復位を達成するとともに三冠となる。しかし、前期/第56期棋聖戦(中原2-屋敷3)で屋敷伸之に棋聖位を奪われ、史上最年少タイトル記録達成を許す。さらに第38期王座戦(中原1-谷川3)では谷川に敗れ、名人位のみの一冠となる。, 1992年度、第50期名人戦(中原4-高橋3)では高橋道雄の挑戦を受けたが、出だしで1勝3敗を喫してしまう。当時までは名人戦では3連勝で逆転した例はなかったが、そのジンクスを破って防衛した。しかしながら、得意であるはずの矢倉戦となった第1、2、4局ですべて負けたことは話題となった。, 1993年、第51期名人戦(中原0-米長4)は、米長邦雄と6度目の名人戦となったが、ストレート負けで初めて米長に名人位を明け渡し、史上最年長名人の記録達成を許すとともに、虎の子の一冠であった名人位を失う。同年度の王将戦では挑戦者となるが、谷川の前に敗れる。(中原2-谷川4)これが、中原にとって最後のタイトル戦登場となった。, 1994年のNHK杯戦で、米長との決勝を制して優勝。これが、最後の公式棋戦優勝であった(非公式棋戦では、達人戦において2001年-2002年の連続優勝を含め、4度優勝している)。, 1999年度のA級順位戦は、2勝7敗の成績で陥落が決まる。これにより永世名人資格保持者がA級から陥落する史上初の事態となった(後に谷川浩司、森内俊之が記録)。A級陥落後はB級1組で2期だけ指した後、フリークラス宣言をし、フリークラスに転出した。永世名人資格者がB級1組で指すのもフリークラスで指すのも前例がないことであった[11]が、その後も2000年度の竜王戦1組優勝、2003年度の竜王戦挑戦者決定三番勝負進出、2004年の王位リーグ入り、2007年の棋聖戦での挑戦者決定トーナメント進出など、各棋戦の上位に顔を出すことがしばしばあった。, 中原と羽生善治のタイトル戦の番勝負はついに実現しなかった。無冠となった後の1994年度前期の第64期棋聖戦では、谷川浩司との挑戦者決定戦に敗れ、羽生棋聖への挑戦権を逃した。同年度の第53期順位戦では7勝2敗の1位タイとなるも、森下卓とのプレーオフに破れ、羽生名人への挑戦権を逃した。1996年度の第22期棋王戦では、挑戦者決定二番勝負で森下卓に敗れ、羽生棋王への挑戦権を逃した。また、森内俊之と戦った2003年度竜王戦決定三番勝負にも1勝2敗で敗れた。結果として、これが羽生とのタイトル戦を実現する最後のチャンスであった。なお、一般棋戦の決勝で羽生と当たったのは、1988年度のNHK杯戦のみである(羽生が名人経験者全4名を破って優勝し、話題となった)。, 2008年8月12日、王将戦二次予選準決勝で、A級八段の木村一基に勝った後の感想戦の最中に体に異変を起こし、病院に緊急搬送される。脳内出血と診断され、即、入院となった。その後、2009年3月31日まで休場することが発表された。この休場による最初の不戦敗の相手も木村一基であった[12][13]。, その後、棋戦復帰を目指してリハビリを続けていたが回復が思わしくなく、将棋に関わる活動ができないと判断して、2009年3月31日をもっての引退届を日本将棋連盟に提出。連盟理事会はこれを受理したことを、3月11日に発表[14]。2016年5月30日付『日本経済新聞』「私の履歴書」によると、入院中に大腸がんが見つかり、治療に専念するために引退を決断したとしている。, 発表当日、中原本人の記者会見[15]が行われた。左の手足に不自由を抱え、右手に杖を持って記者会見場に姿を現した中原であったが、元気そうに、淡々とした口調で「43年という長い期間、タイトル戦など多くの勝負の舞台を踏ませていただき、十分に勝負を堪能した。その点で悔いはない。」と述べた。ただし、「悔いがあるとすれば(挑戦を逃した2003年の)竜王戦挑戦者決定戦。羽生さんと一度タイトル戦を戦ってみたかった」ともコメントしている[16]。, 引退後の活動について、「棋戦の解説、評論活動を行っていきたい」としている。日本将棋連盟は、多年にわたる中原誠の将棋への功績を評価し、2009年4月1日から70歳の誕生日を迎える2017年まで『名誉棋士会長』を委嘱した[14]。その後、3回目の役員変更となる2011年4月11日に辞退するまで務めた[18]。また2009年より、JR武蔵新城駅そばの「新城子供将棋教室」において、弟子の佐藤秀司と共に不定期にタイトル戦の大盤解説会を開いている。, 全盛期は本格派の居飛車党で、「自然流」と称された(「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し回し」原田泰夫)。玉の堅さよりも盤面全体の支配を重視する独特の大局観が特徴で、入玉も得意としていた[19]。また、「桂使いの名手」と言われるほど桂馬の使い方が巧みであり、中原の勝局には桂の好手が現れることが多い。, 対振り飛車戦の玉頭位取りに代表される様に、理想形を目指しそれを阻止しに来たところを咎める教科書通りの勝ち方が多かった。大山戦での「振り飛車破り」、大内戦での「穴熊破り」、内藤戦での「対空中戦法」と、相手の得意戦法を次々と打ち破った。, 1982年度の第40期名人戦で失冠してから棋風が変わり[20]、中原流相掛かり、横歩取り中原囲い、中原流急戦矢倉などの独創的な戦法を編み出した。, 1992年度の高橋道雄との第50期名人戦において矢倉戦で1局も勝てずに失冠しかけたころからは、前述の相掛かり、横歩取り中原囲い、短期間ながら名人戦にも採用した中原飛車、後手矢倉において中原流急戦矢倉、対振飛車における6五歩戦法などを用いて勝率を保った。, 名人戦では大悪手を二回指している(第31期名人戦第3局対大山戦での▲8五金の見落とし、第48期名人戦第2局対谷川戦の△2五桂打はタダで取られるのをうっかりした)。また第37期名人戦第4局では米長を相手に▲5七銀という歴史的妙手を指して勝っている。, 引退前の数年間は「形勢楽観派」の代表的棋士とされ、対戦相手や控え室の棋士たちほとんどが「互角または中原不利」と考えている局面でも、局後の感想では「あの局面では自分が良かったと思う」と語ることが多かった。, 1994年、当時の肩書きであった「前名人」を失う際、それまでの実績からして「九段」とは呼べないということで、特例で「十六世名人」を現役のうちから襲位させるかどうか話し合いが行われた。その結果、十六世襲位は見送られたが、代わりに「永世十段」を名乗ることで落ち着いた。, 2007年11月17日(将棋の日)、永世名人資格を取得して30年が経過したのを機に、また、森内俊之が十八世名人の資格を得たことや引退の期日(規定による)をあと数年に控えていることもあり、理事会が十六世名人襲位を提案し本人が了承。前倒しで現役のまま襲位した[21]。1993年に無冠となってから、実に14年後のことであった。, 2008年4月1日、60歳となってからの新しい年度を迎えた際には新たに「永世棋聖」「永世王位」を名乗ることとなった。永世王位を名乗る棋士は中原が初めて。, 二上達也の後を受けて2003年より日本将棋連盟会長を1期務めたが、2005年会長職を米長邦雄に譲り、自らは副会長に就いた。2007年5月の棋士総会において理事選挙に出馬せず、理事・副会長職を退任した。, 指導者・師匠としても名伯楽ぶりを発揮しており、小倉久史・佐藤秀司・高野秀行・熊坂学をプロ棋士に育てた。また、女流棋界でタイトルを獲得した甲斐智美も弟子である。, 1994年から1998年の間に林葉直子(元女流棋士)邸の留守番電話に「今から突入しまーす」「お前みたいなのは早く死んじまえ! エイズにでも何でも早くかかっちゃえばいいんだよ!」などの本人の肉声が録音されたテープが1998年にテレビのワイドショーなどで公開された。中原は自宅の庭で記者会見に応じ、事実関係を認めた。[22], 詳細は下の年表を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照, 第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあった。1年のブランクの後、主催が朝日新聞社から毎日新聞社に代わった第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31-35期の順位戦は存在しない。つまり、中原のA級以上在籍は29期連続である。なお、第30期と第36期は、名人9連覇の途中に当たる。, その他、大山康晴以来史上2人目の1300勝を達成している(2007年9月27日)。, 氏名は対戦相手。赤いマス目はタイトル獲得(奪取または防衛)。 仮に今期竜王戦が無理でも大舞台を優先的に「吉川屋」に回しますかね?, 先ほど渡辺明名人(三冠)が王位戦の予選で破れました。渡辺名人は王位戦はタイトル戦に出たこともないそうです。 ID: ARdu7gWfzF, 2020/04/28(火) 17:45:06 私はそれを聞いて最初は嬉しかったけど、だんだん不安になってきました。 8 名無し名人 2020/10/22(木) 23:54:04.76 ID:MmGMCsSa. また、どんな時に使い、言葉の由来も、教えて下さい。, ゴートゥーイートキャンペーンがいきなり終了しても、無限クラの予約分(11月26日)のポイントはつきますか?. ところで、タイトル戦を対局するタイトルホルダーor挑戦者が陽性の場合、延期になるのですか? もしも米長邦雄永世棋聖が生きていれば三浦九段のソフト指し疑惑は出なかったと思いますか? 旦那が東大卒なのを隠してました。 身に覚えが無いのでその時は詐欺メールという考えがなく、そのURLを開いてしまいました。 1943年生まれ。通算獲得タイトルは棋聖位7期、名人位1期を含む19期で歴代6位。一般棋戦優勝回数は16回。永世棋聖の称号を持つ。1963年にプロ棋士となり、現役時の通算成績は1103勝800敗1持将棋。2003年に引退した。A級連続27期。 弟子は先崎学九段、中川大輔八段、中村太地王座(七段)、長岡裕也、高崎一生、杉本和陽、伊藤能。また、現在は棋界を引退した林葉直子(引退前は女流五段)も弟子の一人だった。 2012年12月18日、前立腺がんのため死去。享年69。 萩野公介さんは鬱で可哀想だなあ この人ギラギラした目つきしてたのにな … 第7局まで行ったら「吉川屋」になりますかね? !」, 病気やケガでボロボロだった猫が一変……! 優しい飼い主に保護された猫が幸せな暮らしを手に入れる, 伸びた髪を切る時の「圧倒的な断捨離感」が人のために!? 世間のイメージとはそういうものなのでしょうか?. 中原 誠(なかはら まこと、1947年9月2日 - )は、将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る[2]。通算1308勝は羽生善治、大山康晴、谷川浩司、加藤一二三に次ぎ歴代5位。通算タイトル獲得数64期は羽生、大山に次ぎ歴代3位。, 棋士番号は92。日本将棋連盟会長(2003年-2004年)。第1回川崎市文化賞受賞(1972年)。塩竈市民栄誉賞(1985年)。鳥取県気高郡鹿野町名誉町民(2004年)。気高郡勝谷村(その後合併して鹿野町、現鳥取市鹿野町宮方)生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。, 24歳で大山康晴から名人位を奪取し、その後も防衛を続け9連覇。「棋界の(若き)太陽」[3]と呼ばれた。以後、大山康晴十五世名人の後継者として将棋界に一時代を築き、さらには米長邦雄・加藤一二三・谷川浩司らと数々の名勝負を繰り広げた。, 初めは塩釜の佐貝正次郎に6枚落ちから丁寧に指導を受け、仙台の石川孟司(たけし)の指導を受ける。石川の紹介で1956年に五十嵐豊一、原田泰夫と対戦し、その他何人かの真剣師と対戦し腕を磨く。1957年9月末に石川の紹介で10歳で上京し、高柳敏夫門下に入門[4]、兄弟子に芹沢博文がいた。翌1958年4月に奨励会に6級で入会し、13歳、中学2年で初段になる[5]。三段時代に山田道美主催の山田研究会[6]に加入、芹沢の芹沢研究会にも加入する。, 奨励会時代から「将来の名人候補」として高く評価されていたが、プロ入り直前の関門である「三段から四段への壁(奨励会A組、現三段リーグ)」をなかなか乗り越えられずに[7]6期3年間も足踏みし、人間的にも苦悩したと語っている[8]。しかし、1965年秋18歳で桐山清澄を東西決定戦で破り、四段になってプロ入り後は、王座戦で3戦目から11連勝し、その後順位戦において4年連続で昇級・昇段を重ねていき、最速でA級八段となった。, 20歳で、タイトル初挑戦。数日遅れで、当時、加藤一二三が持っていた、タイトル挑戦の最年少記録は更新出来なかった。二度目の挑戦で、棋聖を奪取。20歳でのタイトル獲得は、当時、大山の持っていた、27歳での九段獲得の最年少タイトル獲得の記録を更新する快挙であった。五段でタイトル挑戦は最低段。六段でタイトル奪取も最低段記録だった。 米長邦雄とは、将棋の棋士である。元日本将棋連盟会長。山梨県出身。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は85。, 1943年生まれ。通算獲得タイトルは棋聖位7期、名人位1期を含む19期で歴代6位。一般棋戦優勝回数は16回。永世棋聖の称号を持つ。1963年にプロ棋士となり、現役時の通算成績は1103勝800敗1持将棋。2003年に引退した。A級連続27期。, 弟子は先崎学九段、中川大輔八段、中村太地王座(七段)、長岡裕也、高崎一生、杉本和陽、伊藤能。また、現在は棋界を引退した林葉直子(引退前は女流五段)も弟子の一人だった。, 切れ味鋭い終盤を持ち味とし、劣勢となった時に局面を難しくする手を指して相手を撹乱することから「泥沼流」と言われている。また本人のサバサバとした人柄から「さわやか流」とも言われており、本人は後者を好んでいた。, また、絶対に詰まない形「Z(ゼット)」にして攻める戦い方や、「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という「米長哲学(米長理論)」は、いわゆる羽生世代以降の近代将棋においても、大きな影響を与えている。, 時代の流れを読み取る力にも非常に長けており、現役時代は、自分の戦術を見直すため、自分より立場上格下の若手有力棋士に教えを請う形で最新戦術を学び、念願の名人位を獲得したというエピソードもある。, 中原誠とは熱戦を繰り広げ、対局数は187に及ぶ。そのため、この頃の世代を中原・米長時代と呼んでいた。, 将棋連盟会長に就任してからは特に顕著で、アマチュアのプロ棋士参入条件の整備、女流棋戦、ネット棋戦の新設、日本将棋連盟の公益社団法人化など、挙げられる功績は多い。ニコニコ動画との連携にも積極的で、新聞社がスポンサーを務めるタイトル戦のニコニコ生放送での中継をいち早く実現した。, 人物としては、一癖も二癖もあり、その大物らしい生き様や人生哲学、はたまた好々爺のようなユーモア精神などからファンも多い一方、その人間性を好まないアンチも多く存在するなど、強烈な個性ゆえ人によって好みが大きく分かれる人物でもある。, 米長自身も好き嫌いの激しい性格だったと言われており、特に加藤一二三とはお互い老齢化するまで犬猿の仲だった。更に桐谷広人の許嫁を自分の愛人にした、何百人の女性を斬った、鳥取砂丘でヌード写真集を撮ったなど不埒なエピソードには事欠かない。, ブラックユーモアやダジャレを交えた発言・コメントには定評があり、当人のTwitterには、数万人のフォロワーがついていたほどである(当人は、誰もフォローをしていない)。, 2012年1月14日に行われた将棋電王戦でボンクラーズに敗北。引退棋士とはいえ、公の場で初めてプロがコンピュータに負けた瞬間となった。また、過去には将棋倶楽部24モバイル将棋道場サービス開始記念で特別指導対局に参加したこともある。, 米長会長が日本将棋連盟の会長へ再選された際に、日本将棋連盟の公式サイトにて役員が真面目な顔や微笑む姿の棋士が並ぶ中で、満面の笑顔で両手でピースしている写真が掲載された。(注:関連項目), 3人の兄は全員東大進学というインテリであるが、将棋に関しては四男の邦雄には勝てなくなり、プロ棋士である佐瀬勇次からのスカウトで邦雄はプロ棋士の道を歩むことになった(ちなみに両親は佐瀬の「米長の面倒はみる」という話を聞いて、両親は学費や生活費が浮くからという理由で佐瀬のスカウトを了承したらしい)。, 幼少時のエピソードを踏まえ、「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」と言われているが、この話は米長本人が語っておらず、芹沢博文による「米長ならこう言うだろう」という的なジョークなのである。, ただし、このジョークは米長自身が批判などをしなかったどころか、逆に利用しており、兄3人の合計の年収より米長の年収の方が上だったため、兄達が腐っていたという話を米長本人が記者に話していたり、林真理子が米長にジョークについて尋ねたら「それは芹沢博文という先輩の作り話で、僕はそういう本当のことは言わないんです(笑い)」と返しており、「本当には言ってないが、あながち嘘ではない話(つまり、米長にとっては美味しいネタ)」という扱いに収まっている。, 2018/11/22(木) 14:29:26 棋聖戦(きせいせん)は、産業経済新聞社主催の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。五番勝負の勝者は棋聖のタイトル称号を得る。, 産経新聞社主催の棋戦としては、1951年に開始した一般棋戦の産経杯が源流である。産経杯は1954年に準タイトル戦の早指し王位決定戦となり、さらに1960年からはブロック紙三社連合の協力を得てタイトル戦の王位戦に格上げとなった。1962年に産経新聞は王位戦を離脱し、新たに棋聖戦を開始した[1]。当初は年2回(前期・後期)開催だったが、1995年からは年1回に変更。2018年4月からはヒューリックが特別協賛に入り、正式名称をヒューリック杯棋聖戦とすることとなった[2]。, タイトル名の「棋聖」は、本来は将棋・囲碁に抜群の才能を示す者への尊称であった。将棋では、特に、江戸時代末期に現れた、不世出の天才棋士・天野宗歩を指すことが多く、天野には十三世名人の関根金次郎によって棋聖の称号が贈られている。また、護国寺には、小菅剣之助・関根金次郎らによって八代伊藤宗印を記念する「棋聖宗印之碑」が建立されている。, 1962年の創設当初から1994年度までは、タイトル戦の中では唯一、1年に2期行われていた(五番勝負は6~7月と12月~2月)。現行の年1期制となったのは1995年度である(ちょうど羽生善治が七冠独占を果たした年度に当たる)。, 第81期より挑戦者決定のシステムが変更され、一次予選・二次予選・決勝トーナメントの3段階で挑戦者を決定する。, シード者以外の順位戦C級1組以下の棋士と、女流棋士2人によりトーナメント形式で行われる。8人が二次予選に進む。なお、シード者以外の順位戦C級1組以下の棋士であっても、前期の戦績によっては二次予選からの出場となる場合がある。, 第81期より持ち時間が3時間から1時間(チェスクロック使用)に短縮され、1日に2局指す場合もある(2017年現在、タイトル戦では他に叡王戦がある。テレビ棋戦以外の一般棋戦では朝日杯将棋オープン戦、女流タイトル戦では女流王将戦がある)。, 一次予選の勝ち抜き者8人と、本戦シード者以外の棋士によりトーナメント形式で行われる。棋聖戦五番勝負出場経験者[注 1]、前期決勝トーナメント進出者は、C級1組以下であっても二次予選からの出場となる。81期よりシード人数が変動することになり、勝ち抜け枠は8人以上で毎年変動するようになった。, シード者8名(前期ベスト4以上(4名)+その他シード者(4名))、二次予選の勝ち抜き者8名、計16名が参加する[3]。持ち時間は各4時間。トーナメントの勝者が棋聖と五番勝負を戦う。, 棋聖と挑戦者が五番勝負を戦う。他のタイトル戦と同様、五番勝負は、全国各地の旅館・ホテルや料亭などで実施される。1996年以降、五番勝負のうち1局がホテルニューアワジで開催されることが恒例となっている[4][注 2]。, 年1期制となった第66期からは決勝トーナメントの前に「三次予選」が行われた、第72期からは「最終予選」と改められた。, 永世称号である永世棋聖は、棋聖位を通算5期以上保持した棋士に与えられる。2018年7月現在、永世棋聖は大山康晴・中原誠・米長邦雄、永世棋聖の資格を持つ棋士は羽生善治・佐藤康光。なお、米長はフリークラス転出時に現役で永世棋聖を呼称。また、中原も60歳になった年度に現役で永世棋聖を呼称した。, 01(1962後) - 02(1963前) - 03(1963後) - 04(1964前) - 05(1964後) - 06(1965前) - 07(1965後) - 08(1966前) - 09(1966後) - 10(1967前), 11(1967後) - 12(1968前) - 13(1968後) - 14(1969前) - 15(1969後) - 16(1970前) - 17(1970後) - 18(1971前) - 19(1971後) - 20(1972前), 21(1972後) - 22(1973前) - 23(1973後) - 24(1974前) - 25(1974後) - 26(1975前) - 27(1975後) - 28(1976前) - 29(1976後) - 30(1977前), 31(1977後) - 32(1978前) - 33(1978後) - 34(1979前) - 35(1979後) - 36(1980前) - 37(1980後) - 38(1981前) - 39(1981後) - 40(1982前), 41(1982後) - 42(1983前) - 43(1983後) - 44(1984前) - 45(1984後) - 46(1985前) - 47(1985後) - 48(1986前) - 49(1986後) - 50(1987前), 51(1987後) - 52(1988前) - 53(1988後) - 54(1989前) - 55(1989後) - 56(1990前) - 57(1990後) - 58(1991前) - 59(1991後) - 60(1992前), 61(1992後) - 62(1993前) - 63(1993後) - 64(1994前) - 65(1994後) - 66(1995) - 67(1996) - 68(1997) - 69(1998) - 70(1999), 71(2000) - 72(2001) - 73(2002) - 74(2003) - 75(2004) - 76(2005) - 77(2006) - 78(2007) - 79(2008) - 80(2009), 81(2010) - 82(2011) - 83(2012) - 84(2013) - 85(2014) - 86(2015) - 87(2016) - 88(2017) - 89(2018) - 90(2019), 91(2020) - 92(2021) - 93(2022) - 94(2023) - 95(2024) - 96(2025) - 97(2026) - 98(2027) - 99(2028) - 100(2029), 現役では中村修・南芳一・田中寅彦・屋敷伸之・森下卓・谷川浩司・郷田真隆・羽生善治・島朗・三浦弘行・佐藤康光・丸山忠久・森内俊之・鈴木大介・渡辺明・木村一基・深浦康市・中村太地・豊島将之・永瀬拓矢・斎藤慎太郎・藤井聡太が該当する。, 第17期はシード者2名欠員の為、前期棋聖戦敗者を2回戦から、順位戦A級上位5名をシードとした, 同率の場合、順位が高い者が進出。二次予選突破者(順位3位)同士が、2位タイで並んだ場合、直接対決の際勝利していた者が進出。, 女流棋士から、複数タイトルホルダー・女流名人・女流王将・その他タイトルホルダー・成績上位者の優先順位で2名を決定。女流タイトルを持つ奨励会員が出場することもある(第92期の, 永世棋聖シードの扱いについてはアナウンスされていないが、第92期にて決勝トーナメントシードが6名で、永世棋聖資格者の羽生善治と佐藤康光は二次予選から出場している。, タイトル序列の基準は公式には発表されていなかったが、2017年、第3期叡王戦タイトル昇格の記者会見の際に「契約金の多寡」によって決まっていることが明らかにされた, 竜王:羽生善治、名人:佐藤天彦、叡王:高見泰地、王位:菅井竜也、棋王:渡辺明、王将:久保利明、棋聖:豊島将之, 山田道美は、1970年6月6日に行われた大山康晴との挑戦者決定戦が公式戦最期の対局となり、同年6月18日に急逝した。, 第3期叡王戦発表記者会見―ニコニコ生放送(第2期電王戦 二番勝負 第2局 佐藤天彦叡王 vs PONANZA 終了後), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=棋聖戦_(将棋)&oldid=80205143#永世棋聖, かつて年に2回行われていたこともあり「初タイトルが棋聖」という例も他のタイトルより多く、第88期(2017年)までに11人が初タイトルを棋聖で獲得, 第67期(1996年)〜第73期(2002年)の連続7期、棋聖が防衛に失敗している(挑戦者が奪取している), 変更後 1.竜王戦、2.名人戦、3.王位戦、4.王座戦、5.棋王戦、6.王将戦、7.棋聖戦, 2018年以降 1.竜王戦、2.名人戦、3.叡王戦、4.王位戦、5.王座戦、6.棋王戦、7.王将戦、8.棋聖戦(叡王戦タイトル昇格に伴う), 2020年以降 1.竜王戦、2.名人戦、3.王位戦、4.王座戦、5.棋王戦、6.叡王戦、7.王将戦、8.棋聖戦(叡王戦主催者変更に伴う), 第91期(2020年)は、藤井聡太が一次予選から準決勝まで勝ち上がり、タイトル挑戦の最年少記録の更新が期待されたが、.