執筆:原田たかし, ▼こちらが『 スカパー!Jリーグ公式チャンネル』が公開した動画  チームはその後、後半アディショナルタイムに与えたCKから同点ゴールを許し、土壇場で引き分けに。ミッドウィークに行なわれた上海上港とのACLでは堅守を誇ったが、この日はリードするたびに追いつかれて勝点2を失った。 国内リーグ戦に限る。2019年12月8日現在。 2. クラブ歴. 2016年6月23日、浦和レッズは所属の興梠慎三選手がリオデジャネイロ五輪に臨むU−23日本代表のオーバーエイジ枠に内定したことを発表した。すでに内定していた藤春選手(ガンバ大阪)、塩谷選手(サンフレッチェ広島)と合わせ、最大3人まで認められる枠をすべて使うことになった。, 興梠選手といえば、サッカーファンであれば当然知っている選手だが、詳しくなければピンと来ないどころか、名字を読めない人もいることだろう。そこで今回は、興梠(こうろき)選手がどんなプレーをするのか動画と合わせてお伝えしたい。, 1986年7月31日生まれの29歳。ポジションはフォワード。2005年に鹿島アントラーズに入団すると、中心選手に成長し、A代表に選出されるまでになった。そして2013年から現所属の浦和レッズへ移籍。チームの主軸として活躍している。, そんな彼の特徴は、何でもできるということ。身長こそ175センチとプロの中では高くないものの、ストライカーに必要なものを兼ね備えており、自ら仕掛けることができる上、ポストプレーも得意としている。, 言わば万能型のストライカー。的確なポジショニングでゴールの匂いを察知するため、相手の脅威となることができる選手だ。それは、『スカパー!Jリーグ公式チャンネル』が公開した動画でも確認できる。, 問題はU−23のチームにフィットするかということだが、彼は周りを生かすプレーもできるため、むしろチームに相乗効果をもたらすのではないかと思われる。そもそも、手倉森監督はそこまで見越した上での選考だろう。, 気になる五輪サッカーの日程は、8月4日にナイジェリア代表と、同7日にコロンビア代表、同10日にはスウェーデン代表と対戦する予定になっている。U−23の選手たちとオーバーエイジ枠の3選手がどのような融合を見せてくれるのか、今から楽しみだ。, 参照元:Twitter @REDSOFFICIAL、YouTube KOROKI Shinzo. IWANAMI Takuya. 興梠 慎三(こうろき しんぞう、1986年7月31日 - )は、宮崎県宮崎市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・浦和レッズ所属。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。元日本代表。, 小学生時代、第7回全日本少年フットサル大会に出場した経験がある。同じ少年チームにいた伊野波雅彦は当時の興梠について「ゴールを決めまくっている印象しかない」と語っており、宮崎県内では非常に有名なサッカー少年であった[1]。, 中学三年時に高校の一般入試に落ち、高校進学について悩んでいた頃、鵬翔高校の松崎博美監督からの誘いを受け、鵬翔高校へ入学する[2]。, 高校入学後サッカー部に入部するも、厳しい練習や上下関係に耐えられず、一時期部活に行かなかった時期がある。しかし、松崎監督の説得でサッカーを続け、1学年上の増田誓志とともに全国大会に出場した[1]。, 高校時代から年代別代表に何度も招集され、鵬翔高校卒業と同時に鹿島アントラーズに入団。2007年J1第14節大分トリニータ戦でプロ初得点を挙げた。マルキーニョスと柳沢敦の欠場で出番が回ってきた第28節ヴィッセル神戸戦で2得点をあげるなど、この年は短い出場時間で貴重な得点を多く挙げた。, 2008年は前年に退団した柳沢の背番号13を自ら希望して着用。序盤は前年同様スーパーサブとしての起用が目立ったが得点を重ねると田代有三が不調に陥った後半より完全にレギュラーに定着を果たし、J1連覇に貢献する。, 2009年は開幕直後にメンバー外になるなど、苦しいスタートだったが途中出場した第3節サンフレッチェ広島、第4節京都サンガF.C.戦と2試合連続決勝点を終了間際に決めた。夏場以降14試合得点から見放されたが、指揮官オズワルド・オリヴェイラは興梠を起用し続けた。第30節ジェフユナイテッド千葉戦で3か月半ぶりの得点をあげると、大一番ガンバ大阪戦では後半に先制点と追加点をあげ、優勝へ大きく前進させる。そして最終節浦和レッズ戦では内田篤人のクロスに滑り込むように飛び込み決勝点を決め、鹿島を3連覇へと導いた。またこの年はリーグ戦では自己最多の12得点を記録した。, 2012年頃になると大迫勇也が1トップとして起用されるようになったこともあり、本職ではないサイドハーフで出場することもあった。, 2012年限りで鹿島との契約を満了。同シーズン、鹿島はリーグ戦終盤までJ1残留を決められず、興梠の慰留及び契約延長に出遅れた[3]。その最中、浦和レッズから獲得のオファーを受け、完全移籍した。年間を通して1トップでプレーし、2009年に記録した自己最多得点を更新する13得点を挙げた。, 2014年も李忠成の加入があったものの1トップを守り続けていたが、Jリーグカップ予選第2節大宮アルディージャ戦から李を1トップに、2シャドーに興梠と原口元気を組ませる新戦術で挑んだ。慣れないポジションでの起用だったが、監督のミハイロ・ペトロヴィッチの起用に応えた。J1第13節大宮戦からは1トップに戻った。優勝争いをするチーム内で最多の12得点を挙げていたが、第30節鹿島アントラーズ戦で右腓骨を骨折し戦線離脱を余儀なくされた[4]。シーズン中の復帰は難しいと思われたが、20日の練習に部分参加[5]。22日に行われた優勝を占う大一番となったJ1第32節ガンバ大阪戦にベンチ入りし、後半44分から出場した。しかし出場直後、相手選手と接触した際に患部を強打し怪我が悪化してしまい、再び離脱した。, 2015年は首の故障などで序盤戦は欠場したが、復帰後は1stステージ15節で優勝を手繰り寄せる決勝ゴールを決めるなどコンスタントに結果を残した。2ndステージ12節で得点をあげ、鹿島アントラーズ時代を含めて4年連続二桁得点を達成した。, 2016年10月9日、Jリーグカップの準決勝・FC東京戦では、2ndレグでプロになってから初のハットトリックを決めて代表組がいない中決勝進出に貢献した。10月22日、2ndステージ第15節のアルビレックス新潟戦では2得点を決めて勝利に貢献し、J1リーグ史上12人目となる通算100得点を達成した。, 2017年4月7日、第6節のベガルタ仙台戦では今季初のハットトリックを決めた。5月12日、4月に行われた5試合のうち、5得点をあげて月間MVPを受賞した。5月20日、第12節の清水エスパルス戦で今季2度目のハットトリックを達成した。8月19日、第23節のFC東京戦では2得点を決めて、自己最高の今季15得点目を決めて得点ランキングでも首位に立った[6]。10月22日、第30節のガンバ大阪戦で今季20得点目を決め、浦和の日本人選手として福田正博以来、2人目のシーズン20得点を決めた選手となった。, 2018年4月1日、第5節のジュビロ磐田戦で、史上51人目となるJ1通算350試合出場を達成する[7]。8月2日、第19節の川崎フロンターレ戦で得点を決め、史上3人目となる7年連続二桁得点を達成した[8]。リーグ戦15得点を決め、小林悠と並び日本人得点王となった。, 2019年4月28日、第9節の清水エスパルス戦で、アディショナルタイムの97分に得点を奪い、J1通算139得点目に到達し、三浦知良と並ぶ歴代得点ランキング6位タイとなった。同時にこのゴールは平成最後のJリーグ主幹試合での得点となった[9]。6月15日、第15節のサガン鳥栖戦で、アディショナルタイムの93分に逆転ゴールを奪い、クラブ通算91ゴール目(J1通算)を達成し、福田正博と並ぶクラブ歴代得点ランキング1位タイを記録した。また、J1通算140得点目で、三浦知良を抜いて歴代得点ランキング単独6位になった。7月6日、第18節のベガルタ仙台戦で決勝ゴールを決めた。クラブ通算92ゴール(J1通算)を達成し、福田正博を抜きクラブ歴代得点ランキング1位となった。9月1日、第25節の湘南ベルマーレ戦で先制ゴールを奪い、史上初の8年連続二桁得点を達成した[10]。この年のJ1リーグ、シュート決定率で1位となった[11]。, 2020年7月8日、第3節のベガルタ仙台戦で決勝点を決め、勝利に貢献した。また、この得点により、浦和でのJ1通算100得点を決めた初めての選手となった[12]。9月9日、第15節のサガン鳥栖戦で同点ゴールを決めた。このゴールにより、史上6人目となるJ1通算150得点を達成した[13]。, 2008年、日本代表にも招集され、2008年10月9日に東北電力ビッグスワンスタジアムで開催された国際親善試合(キリンチャレンジカップ)UAE戦で代表デビューを果たした。2015年7月、EAFF東アジアカップ2015に出場するサッカー日本代表メンバーに選出され、約4年ぶりの代表復帰となった。, 2016年6月23日、リオデジャネイロオリンピックに出場するU-23サッカー日本代表のオーバーエイジ枠に内定したことが発表された[14]。初戦のナイジェリア戦ではPKで得点を挙げた[15] が、2戦目のコロンビア戦、3戦目のスウェーデン戦は試合には出場するも得点を挙げられず、チームはグループリーグ敗退となった。, 2018明治安田生命J1リーグ 第5節 興梠 慎三 選手(浦和)J1通算350試合出場達成, 興梠慎三がカズに並ぶJ1通算139点目!心憎いチップキックで平成のJリーグ締めくくる, 浦和FW興梠慎三、J1史上初の8年連続リーグ戦二桁ゴール! 湘南戦の開始3分で偉業達成, “仙台キラー”興梠、途中出場から決勝弾! 浦和加入後J1通算100ゴール…2-1勝利に貢献, http://www.asahi.com/sp/articles/ASJ6R35CKJ6RUTQP006.html, http://www.nikkansports.com/m/olympic/rio2016/soccer/news/1689693_m.html, 【浦和】興梠実家の手羽先店が東京進出「ローストチキン コオロギ」が江東区にオープン, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=興梠慎三&oldid=79710095. トーマス・デン(英語: Thomas Jok Deng、1997年3月20日 - )は、ケニア・ナイロビ出身、オーストラリアおよび南スーダン国籍のプロサッカー選手。オーストラリア代表。浦和レッズ所属。ポジションはセンターバック、右サイドバック。, ナイロビ(ケニア)で南スーダン難民の子供として南スーダン出身の両親の間に生まれ、道端でストリートサッカーを始める。その後6歳の時に、医師である父を仕事の都合でナイロビに残して母、3人の兄、姉の家族とともにアデレード(オーストラリア)に移住[2]、オーストラリア国籍を取得する。, アデレードの南スーダンのコニュミティで生活を始め、初めてサッカークラブに所属して本格的にサッカーを開始。14歳でメルボルンに転居して地元のサッカークラブに所属した後、しばらくしてAリーグ・メルボルン・ビクトリーのユースに加入。ユース時代にはトップチームへの練習参加も経験し、1年後に昇格、18歳でメルボルン・ビクトリーとプロ契約を結ぶ[2]。, 2015年、メルボルン・ビクトリーFCでAリーグデビューを果たす。プロ1年目より13試合に出場し[2]、同年にFFAカップを獲得。, 翌2016-17シーズンは期限付き移籍によりオランダ・PSVアイントホーフェンのリザーブチームのヨングPSVに加入し、ルート・ファン・ニステルローイの指導を受けステーフェン・ベルフワインらとプレー。出場機会を優先し、1シーズン限りでメルボルン・ビクトリーに復帰する[2]。, 復帰1年目となる2017-18シーズンにはAリーグのタイトルを獲得[2]。翌2018-2019シーズンは本田圭佑ともにプレーして本田から「まだ若いけれど、オーストラリアで最高の才能を持つ選手の1人」と評され[3]、2019年のAFCチャンピオンズリーグにも出場する[2]。, 2020年1月に開催されたAFC U-23選手権2020にオーストラリア代表の主将として参加し、そこでのプレーからセンターバックとサイドバックでプレーできるユーティリティ性にジャンプ力やスピードなど高い身体能力、さらに主将としてのピッチ内外での振る舞いや言動が評価された事によって、1月28日浦和レッドダイヤモンズへの加入が発表された[4][5]。, U-23代表としてはAFC U-23選手権2016、AFC U-23選手権2018、AFC U-23選手権2020の三回に出場した。, A代表としては2018年10月15日に行われたクウェート代表との親善試合に出場し代表初キャップ、この試合では同じ南スーダン難民の幼馴染であるアワー・メイビルもともに初キャップとなった[6][7]。, 浦和新加入DFデン、初挑戦の日本で“即戦力”宣言 「安定感やリーダーシップを発揮したい」, 本田圭佑は豪州に何を残したのか。メルボルン・Vの同僚たちが語った『ケイスケ』のリアル, “'A dream come true': refugees Deng and Mabil make Socceroos debuts together”, https://www.theguardian.com/football/2018/oct/16/a-dream-come-true-refugees-deng-and-mabil-make-socceroos-debuts, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=トーマス・デン&oldid=80051094. 興梠 慎三 . 「得点王より、ACLのタイトルが欲しい。今日も90分やろうと思ったんですけど、ACLの疲れなのか、日頃はあまりないようなところの筋肉が張っていたので、チームがリードしている間に堀さんに代えてもらおうと思った。なにより怪我が怖かったので」 浦和レッズ1997年~2020年背番号系譜 最終更新:2020/01/09 23:20 2020シーズン トップチーム選手背番号について 身長/体重:175cm/72kg > MORE INFO; 31. マウリシオ・エルネスト・ペレイラ・アントニーニ(スペイン語: Mauricio Ernesto Pereyra Antonini 、1990年 3月15日 - )は、ウルグアイのサッカー選手。 ポジションはMF。. 22 МАЯ ПРИГЛАШАЕМ НА ОТКРЫТУЮ ТРЕНИРОВКУ! 【公式レシピ】リンゴをレンチンしてベーコンを挟むだけな『ハッセルバックアップル』を作ってみた! 甘みと塩気のバランスが絶妙~!! 【実録】突然「声が出るよ」と書かれた謎の段ボールが届いた → 開封してみた結果 …. 東口 順昭(ひがしぐち まさあき、1986年5月12日 - )は、大阪府高槻市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ガンバ大阪所属。ポジションはゴールキーパー。日本代表。, 7歳から大阪でサッカーを始める。小学校時代はフォワードだったがある試合でチームメートとのじゃんけんに負けた事でゴールキーパーとしてプレーする機会を得た。当初はゴールキーパーとしてプレーするのが嫌で監督に「フォワードとしてプレーさせてくれ」と頼んだ事もあるというが、プレーの内容がよかったことから重要な試合でゴールキーパーとしてプレーする機会が増えていった[1]。芝谷中学校時代はガンバ大阪ジュニアユースでプレーしていたが、身長が低いこと(当時は170cm以下と小柄だった)などの理由からユースへの昇格は見送られ、京都の洛南高校(当時金光大阪高校のセレクションに落選している[2])に入学。高校3年の時に高校サッカー選手権大会の京都府予選で決勝まで進出するもPK戦で惜しくも敗戦し、全国へ行くことは出来なかった。高校卒業後は福井工業大学に進学。しかし、2年時にサッカー部が解散したため、新潟経営大学に転入。2007年にはユニバーシアード代表に選出され、2008年はデンソーカップを受賞するなど徐々に頭角を現し、アルビレックス新潟の特別指定選手に登録された。, プロ入りに際しては古巣のG大阪からもオファーが来たが、大学卒業後は自ら「サッカー人生の転機になった」と語る新潟に加入。6月7日にナビスコ杯予選リーグ第6節サンフレッチェ広島戦にて公式戦デビューを果たしたが、5失点を喫した。, 2010年は黒河貴矢、高木貴弘に次ぐ第3GKと目されていたが、高木が開幕前に負傷離脱し、黒河もJ1第2節ジュビロ磐田戦で負傷退場したため、急きょ途中出場しJリーグデビューを果たした。試合は1-0とリードした場面で同点ゴールを決められるというほろ苦いものであった(試合は1-1のまま終了)。その後はレギュラーの座を譲らなかったが、J1第14節ベガルタ仙台戦で左眼窩壁骨折および鼻骨骨折の全治3ヶ月の重傷を負い一時戦列を離れた。怪我から復帰するとレギュラーに返り咲き、最終的にリーグ戦25試合に出場。飛躍の1年となった。, 2011年はプロ入り後初めて開幕スタメン入りを果たすなど先発出場を続けていたが、8月28日に行われたファン感謝イベントのサマーフェスタ2011のリラックスゲームで右ひざ前十字靭帯損傷、全治8ヶ月の重傷を負い[3]、急きょ移籍加入した武田洋平を登録するため、9月9日付けで選手登録を抹消された[4]。, 2012年はリハビリからのスタートとなったが、4月4日のナビスコ杯予選リーグ第2節清水エスパルス戦で約7ヶ月ぶりに先発復帰を果たした。また、7月21日に行われた東日本大震災復興支援 2012JリーグスペシャルマッチのJリーグ選抜メンバーに選出[5]。前半45分間に出場し、Jリーグ TEAM AS ONEの元イタリア代表FWアレッサンドロ・デル・ピエロと対戦した。チームが得点力不足で苦しむ中でも安定した守りで鼓舞していたが、10月13日のザスパ草津U-23とのトレーニングマッチで負傷。右ひざ前十字靭帯再断裂ならびに内側側副靭帯損傷で全治8ヶ月となり、2年連続での長期離脱となった[6]。, 2013年7月6日のJ1第14節柏レイソル戦で、約9カ月ぶりに公式戦復帰を果たした。復帰以降は守護神として後半戦を首位で乗り切ったチームを支え、第33節横浜F・マリノス戦では好セーブを連発し、マリノスのリーグ優勝を阻止する活躍を見せた。, 2013年12月16日、ガンバ大阪へ完全移籍[7][8]。ジュニアユース時代を過ごしたガンバへ13年ぶりに復帰となった。1年通して大きな怪我なくプロ入り後では初めてリーグ戦全試合にフル出場。リーグ優勝がかかったシーズン終盤の第32節浦和戦や第33節神戸戦ではファインセーブを連発し、11月・12月のJリーグ月間MVPを受賞[9]。シーズン通して安定したセービングを披露し、失点数はリーグ2位タイの31失点に抑え、完封試合はガンバのクラブ新記録となる14試合を記録するなど、ガンバのリーグ優勝さらには国内三冠達成に大きく貢献[10]。監督の長谷川健太からはチームのMVPに指名され[11]、同年度の日刊スポーツ 提供「黄金の脚賞」を受賞。また、ガンバの公式応援番組『GAMBA TV〜青と黒〜』の年末特別企画「ガンバTVアウォーズ」ではMVPに選出された。, 2015年も前年に劣らぬ高いパフォーマンスを見せ、1年通して大きな怪我無く過ごした。代表召集期間と重なったナビスコカップ準々決勝・準決勝、スルガ銀行CSを除く公式戦全試合に出場し2年連続でガンバTVアウォーズのMVPを受賞。CS準決勝浦和戦ではビッグセーブを連発して浦和の猛攻を防ぎ、さらに丹羽大輝のあわやオウンゴールになりかけたバックパスをわずかに足先で触れることで軌道を逸らし失点を防ぐと、そこから自身がつなげたボールが藤春廣輝の決勝点を呼び込む活躍を見せ、Jリーグが選ぶ同試合のMOMに選出された[12]。天皇杯決勝の浦和戦でも味方の倍以上のシュートを浴びながら1失点に抑えガンバの天皇杯連覇に貢献した。, 2018年4月21日に行われたセレッソ大阪戦で、味方の三浦弦太と接触し、右頬骨と右眼窩底を骨折。怪我から3週間で練習に復帰し、5月12日の横浜F・マリノス戦にて先発復帰を果たし[13]、危ぶまれたロシアW杯メンバーにも選出された。, 2011年、AFCアジアカップの日本代表予備登録メンバーに選出された。3月29日の「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では日本代表の本メンバーに選出される。試合には川島永嗣、西川周作に次いで交代出場し、国際AマッチではないもののA代表デビューを果たす。出場時間帯にJリーグ選抜のFW三浦知良に得点を献上した[14]。同年行われたキリンカップにも招集された。, 前述の負傷による長期離脱を経験して以降はA代表からは遠ざかっていたが、2014年11月に約3年ぶりに日本代表に招集される。12月には自身にとって初の国際大会となるAFCアジアカップ2015の代表メンバーに選出された。2015年8月9日、 東アジアカップ2015の対中国戦で初召集から約4年越しで国際Aマッチ初デビューを飾った。, 2018年、ロシアワールドカップのメンバー入りを果たした[15]。大会中は、正GKの川島のパフォーマンスが安定しなかった事もあり、メディアから東口や中村航輔を推す声も出た[16]が、出場機会は無かった。その後、9月10日に放送された『GAMBA TV〜青と黒〜』で、ゲスト出演したW杯で監督だった西野朗にVTRで「どうしたら使われたんですか?」と直球の質問をし、「(東口は)最高の準備をしたと思う。ただ、キーパーは継続して使う、代えて好転させる、(2つ選択肢がある中で)自分は継続を選んでしまいました」と西野から川島を起用し続けた理由を聞いている[17]。9月に日本代表監督に就任した森保一の初陣のメンバーに選ばれ、初戦のコスタリカ戦ではスタメンとして出場している。12月12日、AFCアジアカップ2019の日本代表メンバーに選出された。本大会では、大会期間中に負傷し、短期間で回復したものの、決勝までメンバーで唯一出場機会はなかった。, 東口順昭“日本一のGKへ”vol.3「ユースに昇格できず…本田、家長ら“個が強い”同期との思い出」, 東口 順昭選手 「東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチ」 Jリーグ選抜メンバーに選出, 【2014Jリーグ J1リーグ戦/J2リーグ戦】11・12月度の「コカ・コーラJリーグ月間MVP」決定 ~ J1:東口 順昭選手(ガンバ大阪), http://www.footballchannel.jp/2014/12/06/post59558/, “フットボールチャンネルが選ぶ2014年ベスト30。日本一のGKへ―。大阪の雄が誇る“守護神”東口順昭(3位)”, http://www.footballchannel.jp/2014/12/26/post62623/, “明治安田生命2015Jリーグチャンピオンシップ 決勝進出クラブ決定!! 決勝はサンフレッチェ広島 vs ガンバ大阪 ~準決勝のMOMは、東口 順昭選手が獲得~”, http://www.jleague.jp/release/post-40676/, 東口順昭“日本一のGKへ”vol.2「ジュニアユース時代の挫折と“えげつない”ライバル」, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=東口順昭&oldid=80166332.