南宮山から離脱後、夜四つ(22時頃)にカウツの町で一揆の襲撃を受ける。福富親政らが殿軍となり防ぐ。【福富半右衛門親政法名浄安覚書】 (西軍の南宮山部隊「23,800人」、東軍の池田輝政・浅野幸長らの対南宮山部隊「13,760人」), 【神戸五兵衛覚書】「この方(島津義弘)の陣の前は、備前中納言殿(宇喜多秀家)、東は石田殿が請取の陣場、この方は二番備」 常設されている6曲1隻の「関ケ原合戦図屏風」は1854年に描かれたもの。 そんなメール送られたら、迷惑メールだと思うので、、、, 吉川広家として・・吉川広家になって、毛利秀元、長曽我部盛親と一緒に徳川本陣を急襲する 三成の当初の計画は、伊勢・美濃(現在の三重県・岐阜県付近)を押さえて岐阜城を拠点に尾張(現在の愛知県周辺)あたりで家康を迎え討ち、その背後を上杉軍が取って挟み撃ちにする、というものだったようです。 論功行賞で信之は上田藩9万石(上田・吾妻・沼田)の大名となり、真田領の統治を行う。, 慶長5年12月13日、上田城を明け渡し、高野山へ向かう。【当代記】 史跡巡りのオススメウォーキングコースなども紹介されているので、旅のプランを立てるためにも是非立ち寄ってみてください。, 民俗資料館のすぐ近くにきれいに整備された芝生が広がる公園のような場所があり「関ヶ原古戦場」の石碑が建っています。 親友の大谷吉継を小早川本陣のすぐ近くに展開させる。 家康も経験上戦わずに撤退を始める。 以上、宮下房義さまより。, 石田三成として「史実の内応を知り得ない」前提で下記を述べます。 ※ご投稿は「あなたが西軍武将ならどうする?「関ヶ原の戦い」にて徳川家康を討ち取る方法?」よりお願い申し上げます。 (参考文献:『新解釈 関ヶ原合戦の真実-脚色された天下分け目の戦い』白峰 旬 (著) 宮帯出版社), 【8月5日付真田昌幸宛 石田三成書状の備口人数書 浅野家文書】 そして小西軍を蜂矢の陣細川と井伊を攻撃して小競り合いをしてから百歩後退。鶴翼の陣に変えてから槍部隊で迎え討つ時間を稼いで銃撃かーらーのー、先ほどの別動隊と挟み討ち? 豊前小倉の森吉成は改易処分となり、土佐の山内一豊のもとへ預けられる。 更にこの戦いでわかったことだが人は必ずしも己の予想どうりには動いてくれないのだ。 大津城攻撃後に西軍の敗北を知り、大坂城へ戻る。(国許の久留米城は黒田如水らの攻撃を受け降伏する)その後改易処分となる。, <織田秀信> 多くの大名がその場で討ち取られ、あるいは自刃し、運よく敗走した武将も後に領地を取られ切腹を言い渡されるなど、西軍は壊滅状態。 1614年の大坂の冬の陣では20万対10万です。, 戦死した人数において、関ヶ原では両軍合わせて8000とも、30000とも言われ諸説ありよくわかっていません。 小早川秀秋が裏切るとは、分かっているので宇喜多秀家の手勢を分けて、秀秋の監視する。そこから、大谷吉継と宇喜多秀家で井伊直政福島正則を撃破し、また、石田三成と小西行長で黒田長政細川忠興を撃破。 家康は長宗我部家を改易処分とし、土佐を没収。土佐を山内一豊へ与えることを決定、井伊直政へ浦戸城の請取りを命じる。, 12月初旬、井伊直政家臣の鈴木重好らが土佐へ入るが、一領具足(長宗我部の下級家臣。半農半兵)の抵抗に合う(浦戸一揆)。, 家老衆が話し合い夜中に鈴木重好を城へ引き入れると、家臣と一揆勢は城へ攻撃し、浦戸の南で交戦となり、家臣らが敗北する。【福富半右衛門親政法名浄安覚書】, 鈴木重好と山内一豊の弟 忠豊が一揆を鎮圧する。【12月12日付 山内忠豊書状 朝野旧聞ホウ藁】, 関ヶ原の戦いで島津義弘は戦場から離脱、大坂で家族を連れ出し、立花宗茂とともに堺より海路にて九州へ向かう。, 10月22日、島津忠恒と義久が寺沢広高(家康への取次役)へ弁明書を送る。 大垣城から火の手が上がっているのが見え、城に入ることをあきらめ、伊勢路へ向かう。【大重平六覚書】, 南宮山方面では関ヶ原での敗北が伝わり、長宗我部盛親、長束正家が伊勢路へ退却する。【9月17日 吉川広家自筆書状案】, 関ヶ原から退却する島津義弘と、長宗我部盛親、長束正家の軍が遭遇する。近江水口を領地とする長束正家が島津義弘へ道案内の者を一騎派遣する。【惟新公関原御合戦記】, 「小早川秀秋の裏切りに驚き騒ぎ、進退取り乱したのを見て御方の諸軍は急に攻めかかると、敵は堪えられず石田らを始めとしてある者は伊吹山へかかり、ある者は伊勢路へ落ちて行った。辰の刻(8時頃)に合戦が始まり午の刻(12時頃)に及んで敵軍は残らず敗北した。討たれた者は八千人余りに及んだ。」【関原始末記】, 「数十人の首を内府家康公が首実検をされる。諸卒はしばらく人馬の息を休め、その後佐和山へ軍勢を進め、内府公は鬱憤を晴らされた。 →関ヶ原のあと、八丈島へ流罪となった「宇喜多秀家」とは? 内府は当月朔日に国元を出陣されて、十四日に大垣方面へ押し寄せました。 大垣城の軍勢、石田三成・島津義弘・小西行長などはこれを見て、山へ上り陣取りました。内府は五万ほどにて手人数をそれぞれ別に備えて居陣されていました。 ⑦徳川隊、山内隊、池田隊の動きを物見させる。 (理由1小早川が左翼を担っているため、裏切られたら西軍が袋の鼠。) 西軍「80,000人」、東軍「50,000人」, 【田中興廃記(1822年)】 小早川秀秋として・・徳川軍に銃撃されても、裏切らずに徳川を攻める。そうすれば、脇坂、小川、赤座、朽木も裏切らなかった。 勢いに乗る東軍はそのまま進軍。 ⑨安国寺恵瓊を行進させる中で、長宗我部盛親隊を池田、山内隊に突撃させる。 ②天満山を拠点とし、上記4隊を以て魚鱗陣を形成する(以降天満山4軍とまとめて呼称) 攻撃を開始するはず。別に攻撃を開始しなくてもいい。) (小早川が東軍に攻撃を開始した時点で徳川と吉川の約束がパーになる。 これを見て遅れまじと、秀元隊が家康本陣へ向け山を下る。広家も腹を決め追随。 敗戦後、伊吹山方面へ逃亡。9月19日、庄屋 林蔵主が発見する。小西行長は"我は小西摂津守である。内府のもとへ連れて行き褒美をもらうように"と伝える。林蔵主は早く逃げられよと伝えるが、自分はキリシタンのため自害できないのだと伝える。林蔵主は落ち武者狩りに狙われるとして竹中重門の家来を呼び、引き渡される。【慶長年中卜斎記】 戦い前ではありますが宇喜多騒動を事前に食い止める事ができれば福島隊を敗退させる事も可能になるやもしれません。, 島津隊を動かせるか否かで小早川秀秋の判断と情勢は変わるのではないかと。 この場所に立ってまわりを見渡してみると、周囲をぐるりと低層の山々に囲まれていて見通しがいいということに改めて気づかされます。 【島津家臣某覚書】「惟新様(義弘)御備えより東の備前中納言殿の備え」 宇喜多兵は西軍最多の兵の数だからできるはず。(毛利らは出陣しない) トトオさまより ... 総括、関ヶ原は陣営は完璧、兵で負けたのではなく、人の人選で負けたのである。 以上、朝霞源氏さまより. →松尾山の小早川秀秋陣跡~登山道と駐車場の紹介【関ヶ原の史跡】 1位・3位の大阪の陣と5位の関ヶ原の戦いの兵士の同員数が多いのは分かりますが、ちょっと驚きなのが大坂夏の陣の規模に匹敵する九頭竜川の戦いと関ヶ原の戦いよりも動員数が多かった高尾城の戦いです。, 九頭竜川の戦いと高尾城の戦い、聞いたことがないという方もいるかもしれませんが、どちらも一向一揆が戦国大名と対立した戦いであったのです。, 普通、徴兵して兵士を動員するとなったら恩賞を与えなければならないのですが、一向一揆は信仰心だけで自主的に合戦に参加したため大規模な兵力動員となったのです。大坂の陣と関ヶ原は、全国から集めってきての兵士の数ですが、九頭竜川の戦いの一向一揆勢は、加賀の一向宗だけでなく能登・越中の門徒も加えて20万ですので、北陸地域だけでこれだけの動員数をほこったことになります。, 北陸一向一揆勢は20万いたとされていますが、一説には30万ともされており越前に侵攻します。対する朝倉勢は朝倉宗滴を総大将に九頭竜川をはさんで対峙します。宗滴は、夜半に渡河を決行し奇襲をかけ、これが功を奏し一向宗は打ち負かされ加賀に撤退させることに成功します。, 兵力差でいえば10倍近い差があったのですが、軍勢が多いからといって優勢になるとは限らず、一向一揆勢は所詮烏合の衆です。些細なことをきっかけに総崩れとなり、数的有利であったにもかかわらず敗退しています。, 富樫正親1万余に対し、加賀一向一揆勢は20万です。兵力差20倍なので九頭竜川の戦いよりも差が大きいです。正親の立てこもる高尾城は、20倍の大軍で高取り囲まれ、援軍も一向一揆勢に阻まれ、高尾城は落城。政親は自害しています。, タグ : 九頭竜川の戦い, 兵士, 動員数, 合戦, 大坂冬の陣, 大坂夏の陣, 戦国, 関ヶ原の戦い, 高尾城の戦い. さらに白峰説では家康は、豊臣三奉行の「別心」を黒田長政らに伝えた7月29日以前の7月24日には、すでに7月17日に三奉行が出した「内府ちがひの条々」を入手していたが、諸大名の離反を恐れてその事実を隠し、7月27日時点でも三奉行や淀君が味方であるかのように装っていたとする。, これら白峰説に対して本多隆成は[171][172]、家康が直接の主従関係に無い諸大名に一方的に命令を下したとは考え難く、諸大名の合意と納得を得るために小山評定が開かれたとする等の反論を行っている。また「内府ちがひの条々」の内容や三奉行の加担もいずれは東軍諸大名に伝わるものであり偽装工作は無意味とする。 9月23日、家康が捕らえた石田三成らと大津で対面する。【田中興廃記】, 9月25日、黒田長政・福島正則・浅野幸長・藤堂高虎・池田輝政が毛利輝元に起請文を送る。井伊直政・本多忠勝の所領安堵の起請文に偽りがないこと、反抗しなければ処分はなく協力をすることを伝える。(この起請文に家康は署名していない), 9月25日、秀忠が草津から大津へ移動、家康に面会する。秀忠はその晩に伏見へ移る。【関原始末記】 「この者は内府に内通しておったので成敗いたした!吉川勢はこれより我の指示に従えーさもなくばっ」 ※地形・場所は国土地理院「電子地形図」、河川は明治時代の古地図を利用して作成, 参戦武将と兵数 小早川軍7千に攻撃を開始させる。 西ノ丸へ入ったのは安国寺恵瓊の考えであり、輝元は熟慮がなかったこと、毛利家を存続してほしいと嘆願する。【吉川家譜】(黒田家に保管されていない), 11月12日、家康が薩摩へ侵攻予定の黒田如水へ書状を送る。 一方裏切った武将は、 少し離れるが、南宮山にいる毛利、安国寺、盛親は、毛利が動かない可能性があるので安国寺と、盛親だけで、山の上から、大筒を山内に入れ込む。また、池田を姫路以上の領国を約束して、調略裏切させる。池田は、山内に大筒を打ち込んだタイミングで裏切させる。しかし、池田をまだ動かさず、山内が池田に避難来たところで山内撃破。そこで小早川、毛利も、動かざるを得ないので、家康を囲んで一気に撃破する。そして、家康を討ち取ると、なおよいだろう。また、小早川秀秋がそれでも裏切ったら、小早川秀秋が攻めるであろう、人の旗印に豊臣の旗を掲げ小早川秀秋をビビらせる。それでもう、小早川秀秋が裏切ることがなく、家康を撃破することが、できると思う。 石田三成は大坂城から外に出ない豊臣秀頼や、西軍の総大将である毛利輝元の出馬を求めていましたが、秀頼の母・淀殿の反対などの理由から、どちらも果たされることはありませんでした。, こうして東軍・西軍は互いの動きを読みながらじわじわと駒を進め、東方から続く中山道と伊勢街道、西方から伸びる北国街道が交差する関ヶ原に集結。 一、私の事は丹波亀山へ働き、今日城を請け取った。安心するように。 毛利隊、長曾我部隊(以下南宮山隊という)は家康本隊の後方の部隊を蹴散らし、家康隊に迫る。 7月下旬、大坂へ入り秀頼に面会する。その後、7月24日に馬廻りを連れ上洛、家康に謁見する。【旧記雑録 後編】, 第二次上田合戦の後、西軍敗北の報せが上田城に届き真田昌幸・信繁(幸村)は降伏する。 9月22日に安岐城を攻略、富来城へ向かう。, 9月27日、関ヶ原から自国へ撤退中の島津義弘の船団3隻が国東半島沖を通過。富来城攻撃のため沖に展開していた黒田水軍が船団を発見して交戦となる。島津義弘の船は離脱に成功、薩摩へ帰還する。, 9月29日、日向飫肥の伊東祐兵が東軍方につく。伊東祐兵は病気のため、嫡男 伊東祐慶が家臣の稲津重政に命じ、宮崎城(高橋元種領の飛び地)を攻撃、占領する。, (しかしこのとき大垣城を守っていた高橋元種は東軍へ降伏していたため、1602(慶長7)年、宮崎城を攻撃した責任として伊東祐慶は稲津重政に切腹を命じる。稲津重政はこれに抵抗し清武城に籠城するが、主君の伊東軍に攻撃され討死する。), 10月4日、黒田如水が吉川広家へ書状を送り、上方での戦いが当月まで続けば中国方面へ進軍し、一合戦しようと思っていたが、家康が早くも勝利し残念だと伝える。, 10月、豊後 岡城の中川秀成が臼杵城(城主 太田一吉)攻撃のため侵攻。太田一吉は出撃し、10月3日に佐賀関で両軍は交戦となる。(佐賀関の戦い) 別名”胴塚”と呼ばれることもあります。 島津義弘として・・島津義弘になって本気で戦う, まず、西軍総大将、毛利輝元が出陣すること。輝元本体3万の軍勢が、三星一文字の旗印、旗指物の前に、太閤桐、千成瓢箪を掲げ関ヶ原に現れれば、西軍、東軍に関係なく、関ヶ原全体に大きな動揺とどよめきが起きる。 歴史しんぶん風林火山【武田信玄】戦国最強ともいわれるその戦績や生い立ちについて!https://izinden.net/takedasinngen/戦国武将の武田信玄は、現在の山梨県甲府から長野全体を制圧した最強の武将です。武田信玄がどのように育ったのか生い立ちから、なぜ亡くなったのか死因まで、戦績を追いながら解説していきます。また、武田信玄といえば、風林火山です。その言葉の意味と、最強と言... 以上、ゆっくりさまより。, 石田三成として。 以上、佐藤裕之さまより。, 長曾我部盛親として。 豊臣方の内情を誰よりも知る三成なら、西軍の負けを予見していたとしても不思議ではありません。, 現在の笹尾山は遊歩道が整備されていて麓に駐車場もあるため、比較的簡単に登ることができます。 福島正則6,500、細川忠興2,000、加藤嘉明1,600、黒田長政1,300、筒井定次1,000、田中吉政4,000、藤堂高虎1,500、山内一豊2,600、京極高知1,500、松下重綱1,000、池田輝政6,500、浅野幸長5,000、堀尾忠氏4,000、有馬豊氏2,200、西尾光教400 ※生駒一正ら一部記載なし 長宗我部盛親 更に此処まできたらさすがに毛利軍3万が出陣する。, 更に大垣攻略隊を撃破した西軍4万よって 学生諸君は、日本史のテストに出るので、1600年と切が良い数字を覚えておこう。, 先に石田勢が陣を構えたことから、あとから関ヶ原に到着した徳川勢は、不利な配置となっていた。, 濃霧の中で対峙していたが、霧が晴れて来た頃、福島正則の部隊が、宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛けたことで火蓋が切られた。 ⑧安国寺恵瓊隊を福島、井伊隊の背後を突く形で行進させる。 浅野勢が安国寺勢と対して。吉川勢と毛利勢にも被弾すれば毛利は降りざるえない。   織田有楽 (このとき薩摩では島津義久が黒田如水へ取り成しを依頼し和睦が成立していた), 石垣原の戦いで勝利した黒田如水が豊後 国東半島へ侵攻。 動員兵力・戦死者においても、その規模が大きいのは間違いありません。 三女 辰姫は高台院の保護下に入る。1610年頃、津軽信枚のもとへ嫁ぐ。, <小西行長> 全力で中山道に進出させ徳川隊の背後に迫らせる。ここで徳川隊を前線に押し出す事が目標。 以上、武藤某さまより。, ※他の皆様の投稿内容は順次公開させて頂きます。 15日朝は霧と降雨によって視界不良であったが、巳の刻(午前10時ごろ)には晴天となり視界も開け、物見の部隊が戦闘を開始する。石田・小西・島津・鍋島[注釈 10]の各隊は藤子川(藤川)を越え、小関村の南に南東へ向け陣を敷き、石原峠にいた大谷吉継・宇喜多・平塚為広・戸田勝成の各隊は峠を下りて谷川を越え、関ヶ原より北の平野へ進出し、西北の山を背後にして南東へ向け兵を出す。東軍は先陣の福島正則隊が道筋(中山道)を西へ、その南側を藤堂高虎・京極高知隊が進み、中筋(北国街道)からは織田有楽斎・古田重然・猪子一時・船越景直・佐久間安政の各隊が参戦し激戦となる。金森長近・細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政らの部隊も先を争って攻めかかる。戦いの半ば小早川秀秋・脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠が寝返り、そこへ松平忠吉隊が乱入し、忠吉は数ヶ所の傷を負いながら組み討ちで功名を挙げた。井伊直政隊も松平隊に随伴して参戦し、直政も負傷しながら力戦。吉継は馬上で切腹し、島左近父子・平塚・戸田は討ち死。 (その後福原長尭は伊勢 朝熊山に蟄居となるが、三成の妹婿であるため家康の命により切腹となる), 「こちらの様子を御耳に入れます。去る十四日赤坂に着陣され、十五日巳の刻(9~11時)関ヶ原へさしかかり、一戦に及ばれました。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の四名は、十四日の夜五つ時(19~21時頃)に大垣城の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一つになって打ち寄せました。, この地の衆(尾張衆)、井伊直政また福島正則殿が先手としてその他の諸将が打ち続き、敵の要害へさしかかり、合戦した時(原文:とりむすひ候刻)、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠と祐滋の父子、この四人が御味方になり、裏切りをされました。, そして敵は敗軍となり、追撃により際限なく討取りました。その大将は大谷吉継・島左近・島津豊久・戸田勝成・平塚為広と他にも討取りましたが、知られている衆はこの分になります。打捨て鼻を欠いて捨てたので、誰を討ち取ったのかもよくわかりません。, また十六日に佐和山へさしかかり取り囲み、田中吉政が水の手を取り、本丸へ押しかけると、石田正澄父子・三成の舅 宇多頼忠父子・三成の親 石田正継・妻子一人も残らず斬り殺し、天守に火を懸け悉く焼き払い落城しました。 それを予見していたかのように、東軍は関ヶ原のかなり深い西側の位置まで駒を進めて陣取ります。